キリストの顔は丸つぶれ


                     ユーモアのあるオナーさんよく人を笑わせました。
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                                           奥義が語れるように (下)
                                           コロサイ4章2-4節

                              
                              (2)
  彼は、「目を覚まして、感謝を込め、ひたすら祈りなさい」と勧めています。眠っていてはならない。信仰に目覚めていなくてはなりません。信仰に目覚めると、感謝が生まれます。不満や愚痴は遠ざかるかな?いや、それでも愚痴は出て来ますが、なお感謝へと、キリストへと繰り返し自分を差し出すのです。「感謝を込め、ひたすら祈りなさい」とはそういう意味です。

  不満と愚痴がキリスト者の生活スタイルになっちゃあいけません。キリスト者のライフスタイルがそういうものなら、「あなた方は世の光である」と言われたキリストの顔は丸つぶれではないでしょうか…。

  そうではなく感謝が口からこぼれ、喜びが見られる日常でありたいと願います。「ひたすら祈りなさい。」神の前でのそのような生活は、謙虚さへと向かうでしょう。

  「目を覚まして、感謝を込め、ひたすら祈る。」そこに、「心の貧しい人たちは幸いである。神の国はその人たちのものである」という、快い、清潔な生活が生まれるでしょう。

                              (3)
  彼はこう勧めた後、先ほど申しました、獄中にある自分と、仲間たちのために祈って欲しいと頼みます。「神がみ言葉のために門を開いて下さり、私たちがキリストの秘められた計画を語ることが出来るように。このために、私は牢につながれています。私がしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈って下さい。」「キリストの秘められた計画」は、前の訳では「キリストの奥義」となっていました。

  パウロはコロサイ教会との間で信頼できる関係を造り上げていこうとしています。先週、「愛は造り上げる」ということを話して、荒っぽい態度や荒っぽい言葉は建設的なものを造り上げないと申しました。すると早速、松本とかいう新大臣が、実に荒っぽい言葉を吐いて、大臣を辞めざるをえませんでした。大山教会に来て、説教を聞いて信頼関係を造る手だてを聞いていたらあんなことにならなかったでしょうに。愛は造り上げるのであって、国や社会のリーダーも、教会も家庭も愛をもってしか造り上げることはできません。

  パウロはコロサイ教会を造り上げようとして、コロサイの人たちもパウロの働きに加わって、彼らの愛も造り上げるものになってほしいと願うのです。

  さて、「み言葉のための門が開かれる」とは、新しい人たちへの開拓的な、伝道の機会が与えられることでしょう。

  テモテ書に、「時が良くても悪くても、み言葉を宣べ伝えなさい」とありますが、み言葉の門はいつでも、どこにでも開かれていきます。

  私たちの教会の社会委員会がしばらく前から、ある町のダルクという会に献金を送るようになりました。これはその町のNAのグループ、薬物中毒から抜け出そうとしている人たちのグループです。共同生活をしています。そのグループはいつの間にか、キリスト教会との出会いがあって、薬物中毒でにっちもさっちも行かない人たちの間に、キリスト教が徐々に入りつつあります。また、薬物中毒で苦しんでいる人たちはあちこちの教会に呼ばれて話をしたり、出会いが起こりつつあります。キリスト者になる人も出ているようです。

  神は、私たちが置かれるどんな場所でも意外なことをして下さり、神を待ち望む人と出会って下さったり、み言葉のための門を開いて下さるのです。

  パウロが語っている「キリストの秘められた計画」、神の奥義とは何でしょう。彼は自然に満ちる神秘な現象や密教的な神秘な教え、また人間の内面に現れる不思議な神秘な現象を語ろうとしているのではありません。

  既に1章、2章に出て来たことですが、キリストは神の御子であること。地上に来られた御子は、神の見えない姿であられること。常識では信じ難いことですが、その真理の深さを十分理解できるように話すことが出来るようにということです。万物は御子によって造られたこと。御子は万物の造られる前から、神と共におられた方であること。そこにある深い真理です。このお方が、教会の頭であり、教会はキリストの体であることもそうです。

  また、神の御子が十字架に磔になることによって、信じる者たちの罪は滅ぼされ、贖われ、神との間で平和が打ち立てられたこと。

  御子を信じる者は、良い実を結んでいくこと。根気よく耐え忍ぶ者とされること。闇の力から、光の下、御子の支配下に移して頂いたこと。

  このようにキリストとは何者であり、私たちとどう関係して下さるか。その神のご計画を、恥じることなく、恐れず、大胆に語ることが出来るように、祈ってほしいということです。

  私たちはパウロの率直な姿に驚きます。決して背伸びしたり、気負ったりした所はありません。信仰が深淵過ぎて抽象的で分からないものではありません。むしろ自分の現実の姿と結び付き、キリストが自分の中に受肉して下さる信仰に生きています。

  私たちは永遠の時間の流れと交じり、交錯して生きているのです。ですから、永遠の時と交錯している今の瞬間、瞬間、今の時、今日の日をしっかり目を覚まして生きたいのです。パウロは別の手紙で、「今や、救いの時、今こそ救いの日」と語っています。

  今から始めないで、いつから始まるでしょう。パウロは時を逃さないのです。無駄にしないのです。そのような彼だからこそ、獄中にありながら、奥義が語れるように祈って欲しいと呼び掛けるのです。彼の姿には、現実生活と乖離しない、信仰者のあり方があります。

          (完)


                                      2011年7月10日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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