ハンガリーとイギリスから届いたメール


               フィッツ・ウイリアムズ・ミュージアムの中庭で。キャロラインはどこ?
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                                           奥義が語れるように (上)
                                           コロサイ4章2-4節

                              
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  パウロは今日のところで、「ひたすら祈りなさい」と語り、「同時に、私たちのためにも祈って下さい」と述べ、更に「祈って下さい」と、何度も願っています。

  パウロは祈りの本質を知っています。だから神によく祈りました。祈りはギリシャ語で「プロシュケー」と言いますが、これは空(くう)に向かって、無に向かって言葉を発することではありません。日本人は何でもいい、ただ祈ったり、願ったりしますが、「プロシュケー」は、はっきり万物の命の源なる主なる神に向かって祈ることを指します。その背景には、生前のイエスが、「今から後、私の名によって父なる神に祈りなさい。そうすれば父はお与えになる」と約束して下さったからです。この約束があるから、祈りが意味を持ち、有効になります。

  また、イエスご自身しばしば一人になったり、夜を徹して祈られましたし、「主の祈り」をお教えになりました。イエスのこの模範があるから、祈りが重みを増します。そして、イエスに従う人たちの祈りが大事になります。

  フランスのテゼで出会い、時々やり取りがあるハンガリーのバーバラさんから昨日メールが届きました。一昨日メールを差し上げたので、早速の返事でした。彼女はイギリス人ですが、30年ほど前にハンガリー人と結婚して今、ブダベストに住む女性です。

  メールの最初に、「あなたのメールを見て、私は恥ずかしくてたまりません」と書き始めていました。というのは、3月に日本から届いた地震津波原発事故の報道は、「暫らくはセンセーショナルで、皆、食い入るように見ました。でもだんだんそれも忘れて、今も日本が試練の中にあることをすっかり気づきませんでした。…あなたの国のことを思い出させてくれて、ありがとう。…ところで、その後あなたの生活はどう変化しましたか?あなた方の生活をどのように変えましたか?…」とありました。皆さん、3月以降、生き方をどう変化させられたでしょう?彼女は長く研究所で働いてきた科学者ですが、私は一番難しい問いを投げかけられたと思いました。

  地震後の変化ではありませんが、信仰を与えられて人間として随分変化する人がありますし、性格が穏やかになり、人格的にも最近変わったと人から言われるケースもあります。でも、何ら変わらないという人もあるでしょうね。

  目立たない変化がないという人もあっていいと思います。しかし信仰を得て、信仰前との大きな変化は、祈りを大切にする人になる、神に心を向ける人になるということでしょう。

  初代教会のキリスト者たちはよく祈りました。どれほど祈りを大事にしたかは、使徒言行録で祈りという言葉が25回も出て来ることからも分かりますし、それをお読み下さるならもっと良く分かります。パウロが今日の個所で、「ひたすら祈りなさい」と書くのは、彼自らひたすら祈る人であったからです。彼は自分がしないことを人に書く人ではありません。

  むろん祈りによって神は聞きあげて下さるでしょう。しかしそれと共に、祈りこそ、人と人との信頼できる連帯が生み出され、弱さを絆とする共同体が愛の絆で結ばれるようになるからです。祈りにおいて、弱さが愛の絆に変わるのです。

  ですから彼は、この手紙を書くにあたって、先ずコロサイ人たちへの祈りから始めているのです。今申しましたのは1章2節のことですが、3節で彼は、獄中から、「いつもあなた方のために祈っています」と語り、あなた方の様子を聞くたびに、感謝して祈っていると述べ、更に9節以下で再び、「絶えずあなた方のために祈り、願っている」と伝えるわけです。

  そのパウロが、今日の4章に至って、今度はコロサイの人たちに、ぜひ祈ってほしいと願うのです。

  パウロは傲慢な人ではありません。自分の弱さを知っています。愚かさも罪も知っています。「自分は罪人の頭である」と自覚していました。この自覚は大事です。だから、祈られることを必要としています。キリスト者は単独では歩めません。天才は一人で立つでしょう。だが、キリストの使徒たちは2人で立っています。キリストと共に立ち、キリストにおいて立つのです。だがそれだけでなく、祈り、祈られ、連帯し、共同体の中で支えられて歩めるのです。

  パウロは祈り、祈られ、連帯しということを、コロサイの人たちとの間で自ら進んでしているのです。

  現代は世界が一つです。しかし既に250年ほど前、J.ウエスレーは世界は一つの教区であると語りました。今日そのようになる必要があります。私は昨日驚きました。まさかイギリスから、ケンブリッジにいた時、英語学校で習った50代のキャロラインという先生が、東日本大震災で被災した人たち、教会のために支援金を送ってくれるとは思いませんでした。儀礼的な、言葉だけのことではありませんでした。

  向こうでは、チャリティー・ランチというのをよくしますが、お昼をお友達とするんですが、そのあと美味しく楽しく頂いた分、困っている人たちに献金する習わしがあります。実際に数人の仲間とそれをして、支援金を送ってくれました。先生が生徒を通し、こう言う支援金を送ってくれるというのは稀なことです。また一緒に会食した人たちで、寄せ書きか何かを郵便でお送り下さるようです。9日ほどで教会の口座に振り込まれるでしょうとのことです。届けば、できるだけ早く被災地の教会にお届けしたいと楽しみにしています。

  これは連帯です。連帯の祈りです。昨今のイギリスの失業率は7.8%です。日本から考えるとべらぼうに高い。でも、それ程裕福とも思えない教会の友人が集まって、遠い日本の知人を通して、被災者にカンパしようとしている。私たちはこのような、祈り、祈られ、連帯し、共同体の中で支えられるのです。お金だけのことを言っているのではありません。信仰が支えられるのです。生き方が影響を与えられるのです。パウロは、そういう視点を持って祈りの連帯を、進んでしています。

  私たちはなぜ一つの教会に具体的に属するのでしょう。ただ神が、キリストが相手なら、どこの教会に行っても、どこの教会に属さなくてもいいのではないでしょうか。その方が自由で、縛られず、責任を負わずにおれるでしょう。

  しかし、代々の教会は具体的な一つの教会に属し、そこで生き、そこの課題を担うように促して来ました。その理由は、信仰が実際的なものになり、無責任にならないためです。キリストの体なる教会を具体的に形成するためです。

  イエスは具体的に、この世に受肉されました。他の国でなく、イスラエルという国に生まれ、そこの問題を担われました。それはそこの問題を担うことによって全世界の問題を担うためです。ですから、私たちも、具体的に一教会に受肉し、そこの課題を担うように召されているのです。

  具体的とは、何か資金を集めてというだけではありません。もっと大事なのは、具体的に自分の弱さが受け止められ、具体的に祈られ、支えられることが必要だからです。愛されてこそ、信仰は足腰の強い信仰へと育まれるからです。そしてその時、自分も人を支える人間へと徐々に変えられていきます。

  信仰の友垣に連なり、自分だけよりも深みも厚みも幅もある一つの教会の具体的な歴史に連なることによって、影響を受け、育てられ、謙遜にもされます。

  「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一粒のままにてあらん。だが、死ねば多くの実を結ばん。」この言葉は、以上のような意味も含んでいます。

  パウロはそういう、祈り、祈られる愛の連帯を進んで作っていきました。それが今日の所に現れています。

        (つづく)

                                      2011年7月10日