牧師の免職


                         ケム川の平底舟のパンティング
                               ・


                                           愛は造り上げる (C)
                                           Ⅰコリント8章1-13節



                              (4)
  さて、これらがどうして「大山教会の聖餐の持ち方」ということと繋がるのでしょう。私の考えを先ず述べるのが良いのか、それとも皆さんのお考えをお聞きしてから申し上げるのが良いのか、迷います。申し上げないと、叩き台を示してもらわないと議論が始まらないという意見が出るでしょうし、出せば出したで最初に出されては困ると言う人もあるでしょう。ですから、これは単なる一つの案であって、これは叩き台ですから、皆さんで大いに叩いて下さって、更に善いものを建設的に造り上げて頂きたいと思います。

  さて、私たちの教会は、昨年学びましたが9年前の2002年からオープンな聖餐式を行なっています。誰にも開かれた聖餐式です。これは3年程の学びを経て、総会で決議されて始められたものです。

  ですから私は聖餐式を行なう時は、いつもではありませんが、ほぼ毎回、「洗礼を受けた方だけでなく、キリストを求め、信じたいと願い、その恵みに浴したいと願っている人も、やがて洗礼の恵みに与ることを祈り求めながら聖餐の恵みに与って下さい。キリストは、私たちが愛する前から私たちを愛しておられます。その恵み深さを味わいましょう。主の十字架の愛は全ての人に注がれる愛だからです。感謝して受け、味わって下さい。むろんお取りにならなくても結構です」と言うようなことを申し上げて、お配りしています。

  これまでの教会では、私はクローズドで聖餐式をして来ましたが、このオープンな仕方にも深い意味があると考えたからです。

  特に、説教というのは、「見えざる神の言葉」と言われ、聖餐は「見える神の言葉」と言われて来ました。説教で語られる神の言葉は見えません。しかし、私たちの前に差し出された聖餐のパンとブドウ酒。それはそれぞれ、これはキリストの体である。キリストの血であると言われて配餐され、恵がいわば目に見える形で頂き味わいます。

  しかし、説教で神の恵みは全ての人に与えられていると語りながら、聖餐式の時には、神の恵は洗礼を受けた人にしか与えられません。信仰を持たない人には与えられませんというのでは矛盾です。言葉では恵の広さを語りながら、行いで恵みを限定し、閉じているわけです。

  「神われらと共にいます」というみ言葉も、「われら」とは、クリスチャンだけを指すのではない。全人類を指します。神は私たちすべての人と共にいますと宣べておきながら、聖餐式という大事な所では未信者を入れない。排除する。あなたは恵に与れませんと言う。これは言行不一致です。矛盾です。

  ただ、キリストが私のために命を捨てて下さったことが、ホントーに私の恵みになるのは、キリストを心で信じ、口で告白して初めて起こります。私のために死んで下さったということが、嬉しい出来事となるのは、洗礼を受けて起こる。むろん、ただ洗礼を受けていなくても起こることがあるのですね。どうしてかと言うと、それはもうキリストを信じておられるからで、時が満ちれば必ず洗礼を受けられるでしょう。すっかりキリストとの契約に入って、重荷を降ろして行かれるに違いないと思います。

  長血の女のことが聖書に出て来ます。12年間も出血が続いて、あちこち医者に通うが良くならず、返って悪くなったりする。それで財産をすっかり失くしてしまった。イエスが町に来るというので大勢の人が集まりました。彼女は、どうにかして治りたい。イエス様の衣の房にでも触れれば癒されるのでないかと思って、群衆をかき分けて恐る恐るイエスの傍に近づき、衣の房に触れた。すると不思議なことに、見る見るうちに血の元が乾いた。喜びと恐怖が混じった思いでいると、イエスは立ち止まって、「私に触ったのは誰か」と問われた。彼女は縮こまって下を向いて息を飲んでいた。

  弟子たちは、「イエス様、これだけ大勢の人がいて押し合っているんです。誰が触ったかなんて分かりません。先を急ぎましょうよ」と急がせた。だがイエスは自分に触った人と出会おうとしてそこに留まり続けた。

  余りに長くイエスがその場に留まり、「私に触ったのは誰か」と、その人を見つけようと見まわしておられるので、遂に彼女は恐る恐る顔をあげて申し出ると、顔を輝かして喜ばれ、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。達者でいなさい」と、励ましの言葉を言い残して先へ進んで行かれた。イエスは一人ひとりとのそういう人格的な出会いを望んでおられます。

  洗礼をまだ受けていなくても聖餐が喜びであり慰めであられる方と、イエスはこういう深い出会いを望まれているわけで、そういう方は洗礼を通してイエスとの契約に入って行かれることが大事でしょう。

  少し脱線しましたが、私はこの教会に来た限りオープンで聖餐式をしようと思いました。

  ところが、2007年頃から、横浜紅葉坂教会のK先生は今言ったオープン聖餐をしているというので、牧師を辞めなさいと、教師退任勧告を受けたのです。そして昨年9月、とうとうK先生は牧師を免職させられたのです。牧師職を剥奪された。紅葉坂教会が自主的な判断で教会総会で決めてオープンにしていたのに、教団が各個教会に介入して免職にしたのです。

  しかも、3年にわたって、まともに先生の言い分を聞かず、また紅葉坂教会の言い分さえ聞かず、問答無用とも言える一方的態度で、神に召された先生の聖職を剥奪し、追放しました。常識的にはあまりにも無謀な行為で、一般の人にはキリスト教を含む宗教界は何をしでかすか不気味で分からないという印象を与えました。

  民主主義というのは情報公開と説明責任が保証されなければなりません。しかし一度も本人から事情を聴取せず免職にしました。何がK先生を免職にする理由かも示されていませんし、誰々がK先生を訴えたのか、その名前さえ公表しないのです。暗黒政治まがいです。相撲協会でも本人から事情聴取しましたが、日本キリスト教団はそれさえしなかったのです。相撲協会以下のお粗末な仕方です。

          (つづく)


                                        2011年7月3日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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