聖餐式のあり方


                          ロレーヌさんの誕生会で
                               ・


                                           愛は造り上げる (A)
                                           Ⅰコリント8章1-13節


                              (1)
  今日はコリントの信徒たちに宛てた手紙から学びますが、ご存知のように、コリントはアテネと共にギリシャ文化の中心と言える町です。アテネは哲学発祥の地として、知的で、学問的ですが、コリントは東西に2つの良港を備える一大商業都市ギリシャ産業の中心地で、庶民の生活に根差したギリシャ多神教がこの地方全体を被っていました。

  パウロが初めてこの町に伝道した時、自分は衰弱していて、「恐れに取りつかれ、ひどく不安であった」と書いていますが、衰弱だけでなく、生活の隅々まで染み付いた圧倒的な多神教の雰囲気に威圧されたせいでもあったと思います。

  それ程ですから、改宗してキリスト者になった人たちは、ことある度に偶像問題と直面しました。そのためパウロが10章で、「偶像礼拝を避けなさい」と厳命しましたが、どんなキリスト者も偶像礼拝に対してははっきり決別したに違いありません。

  それについては教会は明確でしたが、偶像に供えられた肉を食べるのはいいかどうかは、教会を割る問題になっていたようです。

  というのは、ギリシャ神殿では神々に肉が捧げられ、それが市場に出回っていたからですし、神殿で何かの行事があると、商売などの関係で出ないわけには行きません。すると偶像に献げられた肉が供されます。それを食べていいのか、悪いのか。そういうものを食べれば、汚されるのでないかということです。

                              (2)
  パウロはそのことに入る前に、先ず、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と語ります。前の訳では、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を高める」となっていました。また名訳と言われる永井直治訳は、「知識は人を高ぶらせるが、愛だけが人の品性を高める」となっています。これらは愛の個人的側面を強調し、新共同訳は教会を建て、造り上げる側面を強調しています。

  いずれにせよ知識だけだと無責任になりがちです。理屈をこねて、口先だけの人間になりやすい。それは普段の生活で経験する所です。だが、愛は心を込めて造り上げ、建設していきます。

  教会がリフォームできたのは、一重に皆さんの教会への愛、神への愛があったからだと思います。「愛は造り上げる」とはまさにそうです。皆さんのリフォームのために献げられたご献金は、額の多少を越えて神への愛の徴でした。

  この春、高校生になったOさんは、日曜日のこの時間に新宿の中華料理店で働いて学資を稼がなければならなくなり、どんなに礼拝に出たく思っているか。電話の向こうで、泣いて礼拝を慕っている思いを先週妻が報告しましたが、教会への熱い思いなしには、貧しい彼女はリフォーム献金はできなかったでしょう。額の大小ではありません。

  礼拝は日曜だけでなく、平日でも教会で出来るわけで、彼女は平日の夜、教会に寄るので祈ってほしいと言っています。他の方々も、日曜日に来れない方は、ぜひ平日に教会においで下さい。一緒に祈りの時を持ちましょう。

  Oさんの話は、神への愛が教会を造り上げる一例です。このようにして、皆さんが教会の一角を担って下さったから新しい会堂があります。

  今日は一日かけて、「大山教会の聖餐式のあり方」を話し合おうとしていますが、その中心に、「愛は造り上げる。キリストへの愛が教会を造り上げる」ということを置いて話し合いたいと思います。「愛は造り上げる」という思いです。

  というのは、教会というのは頑丈な側面もありますが、多面、微妙な作りもので、手荒く取り扱ったら壊れてしまうのです。愛によって造り上げられなければ造り上げられません。「愛は人の徳を高める」、「愛は人の品性を高める」とある通りです。キリストの品性とも言うべきでしょうか。それを十分持っていなくてもそれを目指して人の徳を高め、造り上げなければ、教会は教会らしくなくなります。

  荒い態度、荒い言動では傷みます。愛といたわり、弱さを絆とする共同体ですから、広い心、温かな心で接しなければ、教会を造り上げることはできません。お客さんでは造り上げることはできません。

  なぜ造り上げることが大切かと言いますと、神の愛は、その奥底から豊かに溢れるもので、私たち弱い者も、愚かな者も、罪深い者もお招き下さり、罪を贖って赦して下さるからです。神は私たちを手荒く扱われません。イザヤ書にあるように、「私の眼にあなたは値高く、貴い」ものとして扱って下さるからです。

  キリストは手荒にされることなく、むしろ僕になって私たちに仕えて下さいました。腰を入れ、方を入れて担って下さる。これが、「キリストの体なる教会」と言われている所です。とすれば、私たちも愛をもって仕え、愛をもって教会を造り上げることへと招かれているのは当然でしょう。主の愛は無償の贈り物です。だから無償で、気持ちよく私たちも与えようとするのです。受けるよりも与える方が幸いである。このことを実践しましょう。


        (つづく)


                                        2011年7月3日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


       ・ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/ 

       ・板橋大山教会への道順は、下のホームページをごらん下さい。
                   http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/