長いスパンでゆっくり影響を与える


        顔より先に目が動くジョアンナさんと再開したら同僚と結婚していました。彼女の幸いを祈りました。
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                                           主に仕えるごとく (上)
                                           コロサイ3章22-4章1節
       

                              (1)
  パウロは、エフェソの獄中からリュコス渓谷沿いの田舎町コロサイのキリスト者たちにこの手紙を書き送ったことは、既に何度も申し上げて来ました。そして手紙の終わりに近づき、妻たちや夫たち、また子どもたちや父親たちに向けて書き、今日の個所で奴隷たちや主人たちに語りました。

  「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行ないなさい。」

  今日ここを批判的に読む人は、パウロ奴隷制度を容認していた。聖書は奴隷制度を肯定していると言うでしょう。確かに、彼は奴隷制度を即刻廃止せよとか、それを覆す勇ましい叫びをあげていません。しかし、2千年前のことを、現代の一視点をもって直接的に批判するのは果たして正当でしょうか。お門違いの所がありはしないでしょうか。

  彼は奴隷制度の推進や擁護をしている訳ではありません。彼は別の個所で、「自由な身になりうるなら、そうなりなさい」と勧めていることから、奴隷制を正しいことと考えている訳でないのは明らかです。

  彼はここで、奴隷制自体を問題にしませんが、奴隷であるキリスト者に対して、どう生きればいいのか。善良で寛大な主人に対してだけでなく、無慈悲な主人のもとで悩み苦しみつつ生きるキリスト者奴隷に対して、どう生きればいいのか、アドバイスをするのです。

  どんなガンも治って欲しいと思います。しかし治らぬガンを患い、それを持ちつつ、どう生きるか、どう生きればいいのか。これは極めて緊急の課題であるのと同じです。

  彼は、妻たちや子どもたちに語って来たのとほぼ同じ視点に立って、「主に対してするように、心から行ないなさい」とアドバイスをします。即ち、奴隷や主人というこの世の区別を遥かに超え、超越するイエスを主と仰ぐ生き方や価値観からのアドバイスです。奴隷制の相対化とも言うべき視点から、アドバイスしています。

  私たちは奴隷制を直接は知りません。近代の奴隷制についてはアメリカの黒人奴隷解放の歴史を通して間接的に知っていますが、古代の奴隷制がどうであったかは、例えば創世記のヨセフがエジプトに売り飛ばされて侍従長ポテパルの奴隷にされた実例や、征服された国の人たちが奴隷にされたりしたことは分かっていますが、十分な実体は分かっていません。

  しかし、奴隷制でなく女性の人権獲得の歴史はつい昨日のことですが、これを考えると、元々は女性は裁判の証人になる資格も、公平な相続権も選挙権もありませんでした。ついこの間まで一人の人間として見なされなかったのです。男女が対等に職業を選ぶ権利も、同一労働同一賃金も保障されませんでしたし、社会活動も対等ではありませんでした。

  女性に人権が男性と同様に与えられるようになるには、多くの人の勇気ある闘い、涙と血と汗が多く流されて来ました。新島襄の奥さんのドラマが始まるそうですが、八重さんはまさに婦人解放に多くの貢献をした人ですが、キリスト者女性たちの果たした功績は大きいものがあります。

  奴隷制廃止においても、長い年月、多くの人たちの涙と血と汗が流されて贖い取られました。そういう涙と血と汗で贖い取られた人権の尊い歴史を私たちは決して忘れてはなりません。被差別部落の人たちの人権も同様です。

  もしパウロが今生きていれば、奴隷解放や婦人の差別撤廃などの歴史を見て、そこで流された涙と血と汗をどれだけ高く評価してもし過ぎることはないと考えたに違いありません。

                              (2)
  彼は、奴隷と言え、その全人格が主人の手に属するとか、どう扱ってもいいと考えません。そうではなく、あなた方は「主キリストに仕えているのです」と語りました。奴隷も主の下にあるのであって、神による人権があるという考えです。また、主人に対して、「あなた方にも主人が天におられる」と諌めて、奴隷を正しく公平に扱うだけでなく、彼らを自分の所有物のように、したい放題、勝手に扱うべきではないと勧告しました。

  今日でも、中国各地で起こるデモや反乱の一つの原因は、この公平さの要求であり、不公平への抗議です。

  パウロはそういう所に立つ故に、奴隷たちに、「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えず、主を畏れて、真心を込めて従いなさい」と、主人をも越える価値観で生きるように勧め、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行ないなさい」と天なる神を目指して行なうように勧めました。

  信仰者にとっては、日常性が超越性とつながっています。日常的な一つ一つの業が、超越へと神へと飛躍し、関係していくのです。

  祈りがまさにそうです。部屋の中で一人祈ったり、大勢で祈ったりしますが、目に留まるのは周りの部屋の様子であり、壁や窓であり、人の姿です。でも目に見えるものを越えて、上なる方、天の神、主キリストに飛躍して繋がっていかなければ、どんなに格調高い言葉で祈っても、その祈りは空しい。キリストとの、神との実際的な交わりである時、祈りは意味を持って生きて来ます。

  20代初めの青年時代を思い出します。全く恥ずかしい話ですが、会社に勤めながら、上司から命令的に言われるのがとても嫌でした。今日の所には、奴隷に、「真心を込めて従いなさい」とありますが、私は奴隷のような酷い扱いを受けているわけでないのに、真心を込めたり、気持ち良く従うということができない人間だった気がします。上司はさぞ扱い難かったでしょう。自尊心が高かったのでしょう。

  ですから、今日の聖書は奴隷だけでなく、万人に通じるものです。確かに22節の最初の言葉を省くと、「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行ないなさい」というのですから、万人に通じるでしょう。即ち、見えない所から見ておられる、見えない神に対して行う。祈りと同じです。

  ある人は、少年時代から相手の目を見て挨拶するように躾けられたと言います。それは、相手の中のキリストに向かって挨拶するのだというのです。

  確かに、マザー・テレサさんも、貧しい中の最も貧しい人々に仕えながら、その人たちの中におられるキリストに仕えているということを語っておられました。

  私は、相手の中にキリストを見て、その人と接するにはどうすればいいかと思います。目に見えるものでなく、見えるものを越え、物理的なものを突き破って、その人の中におられるお方を仰ぎ見る、強い意志、信仰を持たなければできないことでしょう。

  パウロは、奴隷制を一刻も早く覆そうとはしませんでした。だが、彼が奴隷たちにも主人たちにも呼びかけたこのあり方、共にその人格、その存在は究極的には主のものであるという、言わば人格尊厳の考え方が、奴隷制を覆して行きました。

  「雨滴岩を穿(うが)つ」ような、長い、長いスパンに基づく視点です。社会に深い根を張った物事は、そういう所からしか根本的には変わりません。「主に在っては、一日は千年の如く、千年は一日の如し」とあるが、そういう気の遠くなるような長いスパンでゆっくり影響を与え、じわじわと社会制度の根本まで覆して行く、そういう視点が聖書にあるものです。

  奴隷制度撤廃ということは人類史上、非常に重要な出来事、一里塚でした。しかし、単に奴隷から解放され、解放奴隷になり、自由人になればそれでいいというわけではないだろうということです。自由人になって、ではどう生きるのか。自由をどう使うのか、ということです。それが根本です。

  今、ヨーロッパで話題になっているのは、自由が保障され、物も豊かになって何でも手に入る中で、この自由をどうすればいいのかという悩みです。自由をもて余してしまう…。

  パウロの主張では、自由人となって、人に仕える僕になるということです。自由な人として、愛をもって仕える人になるということです。そこまで人間の在り方を深く洞察して語っています。

          (つづく)

                                        2011年6月26日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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