弱さを絆に生きよう


                 アウシュヴィッツ(ビルケナウ)の巨大ガスチェンバーの前で      
                               ・


                                           これが喜びの秘密です (下)
                                           フィリピ4章4-7節


                              (3)
  繰り返しますが、パウロは獄中にありながら、決して損なわれることのない喜びの泉を味わっていました。だから真心をこめて、喜びの手紙を外部の人に送ることが出来たのです。

  だが、考えてみて下さい。彼ほど弱さを味わっている人間はいません。生殺与奪の権を握られ、生きるか死ぬかの運命は自分の手にありません。全くの受け身です。お手上げ状態です。

  Hさんは血液のガンで、アミロイドというある種のタンパク質があちこちの臓器にくっついて、その機能をダメにする難病と闘って、今も繰り返し入退院しておられます。その上、先日来、本格的なヘルペスになって、病気があるために薬も出せません。細くやせ細った彼女は、全く受け身です。生きるか死ぬか、運命はご自分の手にありません。でも、彼女は盲目の運命にではなく、キリストの手に預けて生きておられます。だからそのような中でキリストを証ししたいと、今もおっしゃっています。

  足元がおぼつかないので、40代なのに歩く姿はふらふら幽霊のよう?です。だが、この病気を神様から頂いたので、この病気を持ってキリストを証ししたいと元気に言っておられます。

  パウロの葛藤は牢獄だけではありませんでした。外には彼に味方する者もありましたが、全く解せないことですが、同じキリスト者でありながら激しく敵対する者たち、彼への激しい妬みや争いの感情をもって、キリストを宣べ伝えている者さえいました。これは実に腹の立つことです。だが、キリストとの関係の中で、これらを見つめる時、それらは決してキリストの正しいご支配を覆すことはないし、キリストの喜びの泉を埋めることはできない。あらゆるものが、やがてキリストによって生かされ、用いられて行くという確信をもっていました。

  これは、遥か昔、創世記に書かれているヨセフ物語を思い出させます。末っ子のヨセフは兄たちの激しい妬みを買い、密かにエジプトに売り飛ばされました。父親は、ヨセフは野獣に殺されたと騙(だま)され、諦めさせられました。

  売り飛ばされたヨセフはエジプトで数々の辛酸をなめますが、やがてエジプトの総理大臣に抜擢(ばってき)され、7年間も続く大飢饉からエジプトを救います。やがて飢饉がパレスチナにも及ぶと、兄たちはエジプトに食料の買い出しに来ますが、一時は兄たちへの恨(うら)みから、彼らを懲らしめ、恐怖に陥れます。だが、やがて涙ながらに自分の身を明かして、再会を喜びあい、彼らを助けます。

  「私をここへ遣わしたのはあなたたちではなく、神です。」神は家族全員の命を救うために、先に自分をエジプトにお遣わしになったのである。あなた方は私を売り飛ばしたが、それは神の深いみ旨があって、あなた方がしたことであった。これは神の摂理から起こったことです。だから、私はもうあなたたちを恨まない。あなた方を赦す。ヨセフは兄たちに近づき、抱きしめ、罪を赦し、和解して行きます。

  パウロは歴史を支配される神に服しているのです。何事が起ころうと、神は必ずその御心を貫いて、最後的に福音を歴史の中に実現して行かれる。私はそれを信じ、委ね、喜ぶのですと。

                              (4)
  ここには、パウロの落ち着き、何ものにも動じない静かな晴れやかさ。そしてどこかにユーモアも漂っています。彼自身が人知を超える神の平和によって守られているのでしょう。この態度は、「キリストがすぐ近くにおられる」ということから生まれているのは明らかです。

  先ほど触れましたが、彼は2章6節以下で、キリストは「人間と同じ姿になり、更に謙って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順であられた」と書きました。この様なお方ですから、私たちの弱さを思いやることのできない方ではないのです。だからこそ、「思い煩うのをやめ」て、一切を「神に打ち明け」、祈り、願いなさいと勧めるのです。

  パウロが、「思い煩うのをやめ」て、と言っているのは、キリストが、私たちの弱さをすっかり知って下さっている方であるからです。イエスは弟子たちに、「あなた方はこの世では悩みがある。しかし私はすでに世に勝っている」と言って励まされました。私たちは多くの思い煩いを持つ、弱く崩れ易い、脆い存在です。だがその悩みを知って下さっています。

  聖書は、私たちの姿をしっかり見据えてくれています。むろん、「強く雄々しくあれ」とか、「恐れるな」という言葉も、聖書の中の印象的な言葉として聞きますが、にも拘らず、それが語られる前提は、人々の弱さであり、傷みやすさです。チリから出てチリに帰り、土から取られて土に帰る。汝、死すべき者ということ。決して永遠な存在でないこと。一時は傲慢であり得ても、必ず砕かれざるを得ない存在であることです。

  荒井献さんという聖書学者がいます。岩波書店から多くの書物を出している方で、私も習いました。この方が最近、「弱さを絆にした共同体がキリスト者の交わりだ」と言っておられます。弱さをもつ者として、私たちはキリストに向かう者たちだというのです。これはしばらく前に説教で触れたこととも重なります。

  私たちは大山教会に集う者として、弱さを絆にした共同体であるという自覚を深めて行きたいと思います。皆、弱さを持っています。自分だけが弱いのではありません。皆、弱いのです。ですから弱さをもつ者を弾き飛ばさない共同体です。その自覚が深まる時、教会は輝き始めます。

  2章を見ると、フィリピ教会は、「邪まな曲った時代のただ中で、星のように輝」いている、と書かれています。彼らも互いの弱さを知り、それを絆にした共同体であったのではないでしょうか。

  強くあらねばならない。頑張れ、ニッポン。立ち上がれ、強いニッポン。そういう強さへと鞭打つ掛け声でなく、弱くある者と弱さを共にし、泣く者と共に泣く。そういう温かい愛のあり方が日本社会に、そして教会に求められているのだと思います。

                              (5)
  最後に、獄中にありつつ平静であり、落ち着きを備え、余裕とユーモアをもっているパウロ。その姿は、5節の「広い心」と訳された言葉に集約されます。

  「エピエイケース」というギリシャ語です。この言葉は、「広い心」だけでなく、思いやり、寛容、辛抱、自制、権利行使を控えること、謙遜、分別ある態度、優しさ、温かい心、好意、親切など、色々に訳せる言葉で、日本語でも英語でも一つの単語では言い表せない言葉です。これが今日のキーワードであって、「エピエイケース」が、現代も人間にまたキリスト者に求められている態度です。

  「頑張れ、強くあらねばならない」ではなく、弱さを絆とした温かい共同体になることです。それがこの国をも、教会をもそして家庭をも輝かして行くでしょう。

  キリストのみ手に委ねるのです。キリストは私たちのあらゆる心配ごと、弱さを担って下さることを忘れないで進みましょう。そこからエピエイケース、広い心、温かい心が生まれて来ます。

           (完)

                                         2011年6月19日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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