喜びの鍵


                           夕陽と遊ぶ子供たち。
                               ・


                                           これが喜びの秘密です (上)
                                           フィリピ4章4-7節


                              (序)
  今日のフィリピ4章4節以下に、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなた方の広い心が全ての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます」とありました。

  この手紙は大変逆説的な手紙です。パウロの手紙の中でも、この手紙ほど喜びにあふれ、喜びについて触れ、喜びが私たちの所に伝わってくる書簡はありません。何しろこの短い手紙に、実に15、6回喜びという言葉が現れます。

  ところが最も喜びにあふれた手紙が、獄中で認(したた)められたということは特筆すべきことです。しかもこれが書かれた時は、一時的拘束でなく、釈放されて自由の身になれるか、それとも殉教の死を遂げるのか、前途が全く見えない状況に置かれていました。

  この手紙はエフェソの獄中で書かれたという説とローマの獄中で書かれたという説があります。まだいずれか明らかでありませんが、もしローマならこの後すぐにも処刑が迫っていた筈です。

  ところが緊張する過酷な状況下に置かれながら、キリスト者に授けられる、隠された秘密の喜び、その源を発見し、それを牢の外の人々に、更に今日の私たちまで発信しているのです。

  イエスは天国の譬えを語って、良い真珠を見つけた商人が、喜びの内に持物をすっかり売り払い、それを買うのに譬えられると語られましたが、獄中のパウロの姿は、良い真珠を見つけ、喜びの中で持物をすっかり売ってそれを買った人にいかにも酷似しています。死が迫っているにかかわらず、これ程の喜びに満ちているのは、この喜びが死をも打ち砕くほどの偉大な喜びであることを暗示しています。

                              (2)
  この世的な価値観からすれば、喜びや幸福は、好ましい、望ましい環境に置かれることとつながっています。意気投合できる良い友人たちに囲まれている時は、幸せです。望ましい未来が開けて来た時は、嬉しく思います。良いお給料がもらえる仕事に就けば、自分も家族も喜ぶでしょう。美味しいコーヒー、パスタに巡り合っただけでも、うまい焼鳥屋を見つけただけでも喜びがありますね。

  しかし、パウロは獄中にあり、明日は命が取り上げられるかも知れない非常事態にありながら、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と繰り返し喜びを語り、2章では、「たとえ私の血が注がれるとしても、私は喜びます。あなた方一同と共に喜びます。同様にあなた方も喜びなさい。私と一緒に喜びなさい」と語っていました。

  このように繰り返し、繰り返し喜びを語る。これだけも繰り返して獄中から喜びを語れるのは、彼の喜びが本物であるからです。その喜びが非常に深い所に根をもっているからです。

  東南アジアにワークキャンプに行った時、ある日、現地の青年たちと山の水源にピクニックに行きました。殆ど木が育たない乾燥地帯でしたが、水源に立って振り返ると5、60mある絶壁が見えました。その絶壁の上に太い木が1本だけ育っていました。良く見るとその木は絶壁にしがみ付きながら絶壁に沿って谷底まで深く根をおろしていたのです。私はその根の深さに驚きました。80m、90m、それ以上根が伸びているのです。

  パウロの喜びも、そのような非常に深い所に根ざしているのです。

  「常に喜びなさい」とありますが、この世的な喜びは、「常に喜ぶ」ということは不可能です。世は無常だからです。上りがあれば、下りがあり、晴天があれば、冷たい雨の日もある。人生と社会の歩みは、広々した高原を更に高みへと目指して進むことがあるかと思うと、一転して、暗い困難な谷間、死の陰の谷を行くこともあるからです。

  ところが、そういう人生と社会の歩みの中で、パウロは決して崩れることのない幸いの源を発見したのです。その鍵は、今日の個所で、「喜びなさい」と語った後、「あなた方の広い心が全ての人々に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます」と語っている所にあります。

  パウロの喜びの源、幸いの源泉は、この主のもとにあります。十字架につけられ、復活されたキリストのもとに、「常に喜び」を授けられる泉が湧いています。その泉はどれだけ深いかというと、限りなく深くて、決して泉の水は途切れず、乾くことがない真実な泉であります。神と等しい者でありながら、それを固守せず、自分を低く、無にして、僕の姿を取り、更に謙って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまでの限りなく深い所まで降ることによって、そこから湧きあがる喜びの泉を掘られたキリスト。泉となられたキリスト。これは天地が崩れるとも、決してなくならない永遠に湧きあがる泉です。

  パウロにとってそれは十字架と復活のことでしょう。人間の死はイエス・キリストの復活によって克服されたからです。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」そういうことがイエスの復活によって起こった。それが彼に永遠の喜び、決してなくならぬ喜びの泉を与えているのです。

  この喜びの泉、復活を授けるキリストはあなた方の「すぐ近くに」、すぐそばにおられると、主の近さを指し示すのです。

  私たちは確かに、苦い状況に直面したり、過去のそういうものを思い浮かべるだけでも、心は激しく波打ち、落胆してしまうことが多くあります。だが忘れてはなりません。「主はすぐ近くにおられます。」主はすぐ近くにおられるのです!この泉こそ、私たちが冒険を冒し、大胆に歩み出す力を与えます。

  単に失敗しても元々と言うことでなく、もっと前向きな明るい勇気を与えます。

  そしてパウロは、すぐ近くにおられる主を指し示すだけで終わりませんでした。6節で、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と勧めると共に、そこから一歩進んで、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい」と、具体的、実際的な祈りの行動を促すのです。

  「打ち明けなさい。」親しい友人にだけ打ち明けられることがあります。いや、そんな友人にも打ち明けられないことさえあります。だが、「何事につけ…神に打ち明けなさい」というのです。何事もですから、どんなことでも打ち明けていいのです。詩編は祈りの書物です。何を打ち明ければいいのか、どんなことでも打ち明けていいことが、手に取るようにはっきり示されています。

           (つづく)

                                         2011年6月19日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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