君が代義務化で心配なこと


                         魅力的な青年たちとのある日
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                                            生き返った枯骨 (下)
                                            エゼキエル37章1-11節



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  この預言は何を語ろうとしているのでしょう。死後長く経ち、骨の髄まで枯れ果て、希望を失くし、絶望の極みにある甚(いた)く枯れた骨とは何のことでしょう。

  先ほど申しましたが、これは紀元前6世紀のイスラエルの国と、その国民の状態を指していますが、いずれにせよ、この枯れ骨の幻は国や人々の生き様、また魂の姿に関係するのは確かです。

  谷底にあるのは、無数の骨ですが、骨は互いに近く寄り添いながらもすっかり枯れてバラバラです。隣り合わせながら、互いの関係が薄れ、むしろすっかり関係を失っている。骨はささくれ立って、互いに触れると突き刺さって来る。

  骨は個々の人間です。東京のように人がビルの谷間に溢れていても、人と人を根本的に結び付けるものがない。経済が人々を結び付けていますが、いったん利害が衝突すると途方もない攻撃をもって互いに刺し始めます。家族においてもバラバラの所がある。バラバラなのに互いに突き刺さっている。家族だけでなく、自分自身の中の信念自体がバラバラである。孤独死というのがあるが、人は死ねばたとえ儀礼はされても、直ぐ忘れられ、人々は生産現場に足早に去っていく。

  骨の髄まで枯れ果てているのは、命と魂に枯れて枯渇した姿の象徴でしょう。

  むろん町に出れば人々は活動しています。威勢のいい声、元気な人も見受けます。きれいにお化粧したお姉ちゃんも通ります。しかし人の根本のものを欠き、枯れてしまっている。骨が枯れて、谷全体が枯れ骨の谷になってしまっている。これは恐るべき終末的状況です。しかし、この終末的状況、更には末期症状に気づく人はごく僅かです。根本が枯れているのに、その枯れに気づかない。そこにこの時代の急所があります。原発事故で色々攻め合っていますが、原発事故はこの社会が抱えた末期症状の一端にすぎません。

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  しかしエゼキエル書は、霊に預言すると、神の霊がその骨に入り、それは生き返って自分の足で立つ大きな集団となったと語ります。

  私たちの教会はまだ奏楽者が与えられず、ヒムプレーヤーで礼拝しています。そのうちに与えられるでしょうが、私は敢えてどこかから奏者を引っ張って来ようと思いません。神の時が満ちれば、必ず与えられると委ね切っています。

  そのオルガンのことですが、楽器というのは人類の素晴らしい発明の1つじゃあないでしょうか。オルガンは5オクターブ、半音も含めて60音ほどあります。その1音1音はどんなに良い音でも、一つに集められなければバラバラで無意味です。1音だけでは平板で詰まんない。だが60音が1つに集められて、音程を調整されると素晴らしい楽器に立ちあがって行きます。

  神の聖霊は私たちをつなぎ合わせる力。それぞれ独立したものを結び合わせ、組み合わせ、一つに仕上げる力と言っていいでしょう。

  その神の息が吹き来たって、死せるバラバラの骨たちに入ると、骨たちは生き返って、自分の足で立つ意味ある集団になったというのがエゼキエルの預言です。

  これは紀元前500数十年前に語られた預言ですが、イエスの復活後50日して起こったのは、まさにこの預言の成就でした。ユダヤ人を恐れて集まっている弟子たちに聖霊が降り、世界からエルサレムに集まっていた様々な言語を語る人たちに、彼らの言語でキリストの福音を語り出し、やがてこれらの人たちが信仰の仲間に加えられ、洗礼を受け、民族や言語や習慣の違いを越えて大きな一集団になって行ったのです。

  神の霊、神の息はルーアハと言いますが、これは違いを越えて人々を結び付け、つなぎ合わせる力です。キリストが私たち一人一人のために命を捨てられましたから、キリストは命をもって私たちをつなぎ合わせられるのです。エフェソ書に、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによって、しっかり組み合わされ、結び合わされて、各々の部分はその分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」とある通りです。「キリストにより」です。十字架と復活のキリスト、偉大なキリストの霊が一つに結び付けるのです。

  大阪の知事は先頭になって、君が代斉唱を学校の先生たちに義務付ける法案を通しました。歌わなければ罰則を与えるようにしようとしています。非常に強権的な知事です。君が代がこれまで日本の歴史で果たした役割を知らないのでなく、恐らく知って歌わせようとしています。

  日本に中心がないから、中心が枯れているから、君が代天皇を中心にしようということでしょう。しかし、古い天皇制はもう破綻しています。骨董品のような偽りの中心を据えても、うまく機能しません。却ってそれは国民統制となり、自由な発言と発想を封じ、人権も制約され、一層日本人のエネルギーは枯れていくでしょう。

  一番の心配は、誰が歌って、誰が歌っていないかを密告する制度が生まれることです。恐らく制度化はされないでしょうが、暗黙の制度が生まれるでしょう。すると先生同士に信頼関係が失われ、教育の根本が揺らぐでしょう。今の社会を根本的に悪化させます。リビアの独裁的なガダフィ政権が長期間続いたのは、密告制度を敷けたからです。しかし、そのような恐怖政治は必ず破綻します。

  強権の発動によってでなく、もっと自由闊達な意見が言える社会を作り、別の人たちの発想も柔らかく取り入れる社会づくりが必要です。ピンからキリの音まで、60音が全て喜びをもって用いられる社会です。神の霊が各人に吹き込まれて、喜びが回復される社会です。それは表面的な喜びや享楽ではありません。命を与えられていることへの深い底からの感謝です。生かされている賜物への感謝です。

  私たちの存在を造り出して下さった方への喜びの感謝です。甚く枯れた骨を生き返らせ、命を吹き込む方への感謝です。喜びを授ける新しい光の中で、人々と万物を責任的に引き受けるように導く新しい霊です。

  なぜ苦難を負い、不幸を負い、言葉を失う程の試練の中にいる人たちを新しい目で見ることが可能かというと、人々の試練と不幸よりももっと深い所にキリストがおられるからです。このキリストへの信頼がある所に、社会を見、隣人を見、自分を見る見方が新しくされるのです。

  今日本は大変な状況ですが、昨年のチリの大地震にどれだけ日本人は関心を抱いたでしょう。チリは実に大きな試練の年でした。あらゆる試練が起こり、最後に地震津波が襲たったのです。

  しかし、その悲しみの中にありつつ、信仰によって気高い姿をもって生きている人たちがありました。日本の新聞などは報道しませんが、そういう人たちがあちこちにあったのです。それは、その苦しみの中に、またそれよりもっと深い所にキリストがおられることへの信頼があったからです。

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  ペンテコステに霊が降りました。すると一人ひとりが福音を語り出しました。キリストの復活の意味を語り出したのです。勇気をもって同国人に、キリストを説き始めたのです。

  今日のエゼキエル書にあった、「自分の足で立った」ということ、キリストによる自立が起こった。ここに信仰者が生まれ、人々の主体が確立されて行きました。その信仰の確立があって、教会が世に誕生して行ったのです。

          (完)


                                          2011年6月12日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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