枯れた骨の谷
ウエスレー教会のある日のウオーキングの人たち
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生き返った枯骨 (上)
エゼキエル37章1-11節
(序)
私たちはそれぞれの誕生日がありますが、教会にも誕生日があります。ただ教会の誕生日は、固定していません。毎年違います。今日はペンテコステですが、世界中の教会はこの日を教会の誕生日としてお祝いします。
イエスの復活後50日目に、エルサレムに密かに集まっていた弟子たちに神の霊、聖霊が降りました。彼らはキリストの霊に力強く満たされ、今までと全く違い、勇敢に復活のキリストを宣べ伝え始めました。一日に3千人が仲間に加わることもあったようです。こうして地上に教会が誕生しました。それで、ペンテコステは教会誕生を祝う日になったのです。
(1)
先ほどの聖書には、預言者エゼキエルに主の手が臨み、彼はある谷の真ん中に降ろされたとありました。見ると、そこにはいたる所、「枯れた骨がいっぱい」で、しかもよく見ると、骨は「甚だしく枯れていた」とありました。
谷全体を被い、何万、何10万と累々と横たわる人骨。これはもう想像を絶した終末的な恐ろしい光景だったでしょう。地震と津波で1万5千人程が亡くなり、まだ8千人程が行方不明のようです。大半は恐らく冷たい海中や泥の中に沈んだと思われます。7年前に起こったスマトラ沖地震では22万人余が地震と津波で海に飲まれて亡くなりました。これらもまた恐るべき光景です。
谷全体に横たわる枯れた骨は、「甚だしく枯れていた」というのですから、ずっと以前に死に果てたのでしょう。骨が枯れるとは、骨の脂分(あぶらぶん)がなくなることを指します。今や脂分をすっかりなくし、風化寸前であったということでしょう。
そもそも骨は骨格をなしますから、人体で一番大事なものです。英語でバックボーンと言えば、身体の中心をなす背骨を指したり、その人の最も重要な信念また気骨を指します。それが甚(いた)く枯れていたというのです。
もはや生き返ることのない、絶望的状態に置かれていたのです。「もはや生き返ることのない、絶望的な状態」と言うと、当り前だろうと思いますが、11節にありますように、枯れ骨の谷の光景は「イスラエル全家」を指すものであり、国民も国家も、その骨、その根本からすっかり枯れてしまい、「望みがうせ、我々は滅びる」という状況に立たせられていたということですから、社会的な意味で絶望的と申し上げたのです。
この終末的な黙示録的な光景は、自然の風景ではありません。危機に面し、終末的状態に立ち至ったイスラエルの国と国民の姿です。
(2)
さて、預言者エゼキエルは、神から、「人の子よ、これらの骨は生き返ることが出来るか」と問われて、「主なる神よ、あなたのみがご存知です」と答えました。生き返るか、生き返らないか。それは人間の業を越えたことです。たとえそれを希望しても、再生しないかも知れません。だが、たとえ全く絶望的に見えても、神がお働き下されば復興するでしょう。私たちの生活も本当のところはこれと同じです。
復興の可否は、あなたのみ手にのみかかっています。彼はそう答えたのです。
すると神は、「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。…見よ、私はお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生きる。…お前たちの上に筋を置き、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちは私が主であることを知るようになる」と言われたというのです。
そこで、エゼキエルが、シーンと静まる谷一面に広がる骨たちに向かって語りかけたのです。実に滑稽な場面です。暫くは物音ひとつ聞こえません。まるで墓場にいるような不気味な静けさです。所がしばらくすると、どこかで音がしたのです。カサ…。カサ…。何か動くものがあった。カサ、カサ、カサカサ。きぬ擦れのような、カニの歩く音のような耳をそばだてなければ聞こえない、非常にかすかな音です。
しばらく目を凝らし、聞き耳を立てていると、あちこちで枯れた骨がかすかに動き出し、初めはかすかであったが、だんだん動きも音も大きくなり、骨がこすれ合ったり、ぶつかりあったりしながら、カタカタカタカタと乾いたはっきりした音に成長し、骨たちが大胆にも大きく動き出し、遂にはガタガタガタガタと騒がしい音が聞こえるようになり、谷の至る所、骨の動きで騒音となり、あちらでもこちらでも骨と骨がくっ付き合い、組み合わさり、遂には骨の上に筋や肉が生じ、皮膚がその上を覆ったというのです。
何だかアニメ映画の1シーンを見ているような有様です。いやむしろ、初期のアニメの作者たちがこのエゼキエル書から着想を得ていたかも知れません。
だが、体はできたが、中に霊はなかった。骨と肉のみ、物体のみ、物質の塊だけであった。そこで、神は再び彼に、「霊に預言せよ。…預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る」と語られた。
そこで、命じられたように預言すると、「霊が彼らに入り、彼らが生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」と言うのです。
霊が吹き込まれなければならない。精神が、魂が、目的と使命が、神の息が吹き込まれなければならないのです。そうでなければあるのはただ物体。物体が喰っちゃ寝、喰っちゃ寝しているだけ。そしてエネルギーを自分のために消費して、最後に甚(いた)く枯れて、朽ちて行く。ただそれだけ…じゃあ、あまりに寂しすぎる…。
(つづく)
2011年6月12日
板橋大山教会 上垣 勝
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