子どもの泣き声を聞かれる神さま


                 おなじみの大聖堂。地面に這いつくばって人物と塔全体を撮りました。  
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                                          あなたは豊かに実を結ぶ (中)
                                          ヨハネ15章1-10節



                              (3)
  次に、「私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」と語られました。

  6月の今の時期から、農家がぶどうの手入れに神経を使う忙しい時期になります。実を結ばない、伸び放題の枝は除かなければ養分が実のなる枝にしっかり行きませんが、深く剪定するとダメです。今は花が咲き、実をつけるので、余分な花や実を摘み取ったり、悪い房や小枝を取ったりします。この手入れや剪定は一種の愛情です。

  「私の話した言葉によって、あなた方は既に清くなっている」とありました。聖書は励ましもしますが、時々悔い改めも迫り、心をグサッと刺しもします。私たちが手入れされ、清くされるためです。


  話は逸れますが、ミカンの白い花も5月末から6月始めに咲きます。香りは馥郁(ふくいく)としてほんとに素晴らしいですね。顔を花の中に埋めると、ウーン、いい匂い。10年は若返ります。もう一度嗅ぐと20年若返る、でしょうか。独特の忘れられない甘い香りです。

  花が落ちると、花の根元にマチ針程の濃い緑の実が生まれています。それが1週間でビー玉の大きさ、それからまた数週間でピンポン玉の大きさと育って、自然は活き活きと生きていることを実感させてくれます。魅力的ですね。


  ぶどうの花の方は地味ですが、ほのかな甘い香りがします。房になっていますので、花は線香花火のようにチリチリ乱れ咲きます。花の先に帽子のようなものをかぶっていて、花が開く瞬間、それがパッと落ちて、同時に花粉が雌蕊(めしべ)に受粉するんです。神様は実にうまくお作りになっていますね。絶妙のからくりです。

  今の時期に枝を切ったら大変です。深く剪定するのは1月、2月です。今、枝を切れば樹液がポタポタポタと、次から次へと流れます。津田沼に住んでいた頃、玄関に甲州ブドウがあって、この時期に枝を切ってあわてました。人為的に留める方法はないそうです。人間なら止血しますが、ブドウは流れるに任せ、止まるのを待つだけだそうです。ぶどうの木を育てると、枝は複雑に絡まって、どこがどこにつながっているのか殆ど分かりません。でも切ってみれば木につながっているのが分かります。


  創世記に、アブラハムの妻サラは子どもを産めない不妊の女性であるために、自分の側女(そばめ)ハガルとアブラハムの間で子どもを産ませようとします。それがイシュマエルです。ところがしばらくして、サラと夫アブラハムとの間にイサクが生まれます。

  するとサラは、側女がうっとうしくなり、側めの子が自分の子をからかっただけで腹を立てます。最後には、ハガルとイシュマエルを追い出そうとするので、アブラハムは非常に苦しみます。アブラハムにとってはイシュマエルもイサクも自分の子であるからです。サラは全く勝手な女とも言えますが、罪ある人間の当然な姿でもあるでしょう。

  アブラハムは、やむなくハガルとイシュマエルを去らせることになって、彼らは朝早く起き、パンと水の革袋をもってべエル・シェバの荒れ野をさまよいます。広い荒涼たる荒れ野で小さい子を連れて大変だったでしょう。荒れ野の中で革袋の水が尽きると、彼女は子供を灌木(かんぼく)の下に寝かせて、自分は子供が死ぬのを見るのが忍びないと言って、離れた所でしゃがみこんだのです。

  彼女が子どもの方を向いてしゃがみこむと、子どもは声をあげて泣き出したのです。創世記の中でもとりわけ不憫さを感じる個所です。すると、その泣き声を神が聞かれたというのです。

  幼児虐待が時々報じられますが、子どもはどこにも逃げ場がありません。イシュマエルは荒れ野の真ん中で泣き叫んだ。すると神が聞かれ、ハガルの目を開いて、水のある井戸を示して助けられたと書かれています。

  ハガルもイシュマエルもぶどうの木につながる枝です。サラの目から見れば、彼らは追い出すべき、異種の人間でしょう。邪魔なのでしょう。でも、神の眼には彼らもぶどうの木につながる人々です。彼らにも生きる権利をお与えになります。

  私はぶどうの枝を切って樹液が止まらなくなった時、外からは分からなかったが、木は枝に間断なく命を送っていることを学びました。外からは見えませんが、樹液がドクドクと川のように流れて小枝に運ばれているのは事実です。

 イエス・キリストも私たちに命を注いで下さっています。外からは見えません、実感もないことが多い。「人が私につながっており、私もその人につながっていれば」とありますが、特に、洗礼を受けるということは、イエスの方からも、その人からもつながっていることです。気がつかなくても、キリストの命が流れ込んでいます。

        (つづく)


                                        2011年6月5日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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