農夫は土を愛し、作物を愛し、人を愛し…
田舎町オータンの名品エバです。一瞥して強く惹かれました。
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あなたは豊かに実を結ぶ (上)
ヨハネ15章1-10節
(序)
6月になり衣替えの季節です。私たちの教会は省エネ教会ですので、6月から10月頃まで、半袖の普段着で礼拝をすることにしています。エアコンをあまり使わず、団扇を置きますので、夕涼みみたいに団扇を動かして礼拝に与って下さい。
信仰は普段の生活の中で表わされるわけで、立派な建物の教会では夏でも上着を着て司式するのが普通ですが、そんな盛装をしても普段の信仰が結局問われますから、普段着で礼拝することで信仰を生活の中で考えるということが狙いです。エアコンも付けますが、見苦しくない程度の薄着で、省エネで礼拝しましょう。
(1)
イエス様は、「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」と言われました。
「まこと」のぶどうの木と言うのですから、偽りのぶどうの木があるのでしょうか。野ぶどうがそれでしょうか。それとも甘くない、酸っぱくて歯が浮きそうなぶどうのことでしょうか。
「私はまことのぶどうの木」という言葉で、イエスが、神が植えられたぶどうの木に譬えられています。イエスの中に神のまことの命が流れているということでしょう。
私自身のことを考えると、自分の中に神の命など流れていません。人間の血、しかも相当コレステロールの高い濁った血が流れているに相違ないと思います。つまみ食いもします。Mちゃんと同じように、デパートの試食コーナーが好きです。人のアラ探しもします。批判されると怒ったり、落ち込んだり、悩みます。何回かは寛大であっても、何度もとなると赦せない心の狭さを持っています。
愛を説きながら、敵対して来る人や批判する人を赦せないのですから、決して清い血が流れているとは言えません。時代が進み、レントゲンのような機械で心の中が映せる時代が来れば、恥ずかしい程、濁った心が映し出されるでしょう。罪のどす黒い血が私の中に流れているのは確かです。
しかし、イエス様はまことのぶどうの木で、神の命が流れています。
(2)
次に、「私の父は農夫である」と、神が農夫に譬えられています。なぜ農夫なのでしょう。
農夫は、育てる人です。野菜やお米などを愛情をもって育てます。そのためには、まず土を愛さなければなりません。深くよく耕し、肥料もよくすき込み、良い土づくりから農業は始まるでしょう。無論良い土を作っても、放射能がお茶の葉っぱに混じっちゃあいけませんね。有害な農薬もしかりです。
ですから、良い農夫は環境全体を大事にして愛するでしょう。確かに下北の核燃料サイクル施設に近い所で、昔から酪農をしているキリスト者たちがいますが、土や環境はお金では買えない故に、黙々と長く反対をしています。福島原発で周辺が高度な放射能に汚染されて、原発難民が何万人も苦しんでいます。そこからすれば、このキリスト者たちの長い静かな反対は正当性があります。
それから、農夫は、むろん作物自身を愛します。リンゴ農家の人も、ブドウ農家の人も、愛情を掛けて育てるとうまさが違うと言いますが、作物自身に愛情を注いでいます。私は長く地方の教会にいたので、そういう農家の人の姿がよく分かります。
それから、良い農夫なら人を愛する。食べてくれる人を大事にする。消費者を大事にして、安全な、おいしい食べ物を作ろうとするでしょう。
また、神を愛するでしょう。野の作物は全て神から来ると言えますから、万物の源である方を愛することなしに農業をするのは本当にはあり得ない。ですから神を愛し、敬う気持ちが生まれます。
このように、農夫は土を愛し、作物を愛し、人を愛し、神を愛しますから、愛をもって人を育てられる神が農夫に譬えられたのでしょう。
(つづく)
2011年6月5日
板橋大山教会 上垣 勝
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