本音は、疲れた人は来るなですよね。


                  打てば響く、明るい空気のただようありし日の栄冠幼稚園
                               ・

                                            心に静かな休みを (下)
                                            マタイ11章25-30節




                              (4)
  イエスは更に、「私は柔和で、謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたは安らぎを得られる」と言われます。

  イエスは「柔和で、謙遜な者だから」と言われたと聞くと、自分をそんな風にう言うなんてちょっと違うんじゃあない?って思ったりします。でも、そういう意味じゃあなくて、自分は低くなって、仕える者だから、私に学びなさいと言われるのです。イエスは、自分は何もしないで命令する方ではありません。むしろ自ら低くなり、仕える模範を示してお教えになります。「狭い門から入れ」と言われる時も、自分は狭い門から入らないで命令しているのじゃあなくて、ご自分は先ず狭い門からお入りになって、中から、さあ、この門から入って来なさい。これは命に至る門ですって言っていらっしゃるのです。

  日本語の「学ぶ」は、真似をする、真似るから来ていると言われますが、イエス様は私の真似をして、学びなさいと言われたのです。これこそ本当の教師です。

  また、招きを語られるのがイエス・キリストだから、休みを与えられるのです。もし詐欺師なら、休みを与えようと約束しながら、もっと酷い荷物を負わせかねません。

  統一原理などに引っかかった人はまさにそうです。あちこちで酷い目にあっている人がいます。もしそこに行っていなければ、人の役に立てる生き方が出来たでしょう。生業に就けたでしょう。心の響き合う人と結婚できたでしょう。社会的に良い仕事もできたでしょう。しかし、折角の能力も学力も生かせず、失敗の人生を歩んでしまって、今や取り返しがつかなくなっています。

  しかし、詐欺師でなくて普通の人なら、建前はいずれにしろ本音は、疲れた人や重荷を負う人を招きません。疲れた人は来るな。重荷を負う人は来るな。暗い顔をしている人は来るな。病人は来るな。明るい人、元気な人、能力のある人だけ来い、と言って招きます。

  NHKで「家族と乾杯」ですか?「つるべ」とか何とかいう人が出るテレビをときどき見ますが、どうして、「つるべなんて知りません。そんな人有名なんですか」っていう人は出て来ません。そういう人は招かれていない。NHKは登場させない。自分に役立つ人は招きますが、役立たない人は避けるのが、世の常識です。

  だがイエス様は、役立つ人に呼び掛けたり、能力のある人や元気な人にだけ呼び掛けたりされるのではありません。

  招きを語られるのがイエスだから休みを与えられると申しました。それはイエスご自身が軛(くびき)を負っておられるからです。

  イエスが負っておられる軛に一緒につくと、その「負い方」を学べるからです。また、それを負う「目当て」を学べます。そして負い方と目当てを教えられると、負いやすくなります。目当てとは、神を仰ぎながら負うのです。神の栄光のために負うのです。私たちが造られ、今存在している、その存在の根拠であるお方との関係で負うのです。すると負い易くなります。

  自分の重荷だけを負っている時には、もの凄(すご)くつらく感じますが、イエスが私の傍らで全人類の罪を背負って歩いておられることを知ると、自分の荷が軽くなります。血の汗をたらしながら祈られ、十字架にかかっても、「彼らをお赦しください」と言って祈られるのを知ると、自分の十字架を負う負い方を示されます。

  イエスの負っておられる重荷の重さ、身体が沈みそうな程の重荷の過酷さを知ると慰められ、自分の荷が軽くされるのです。このように、イエスと一緒に生きる時、安らぎが生まれます。そして安らぎが生まれると、腰を入れてしっかり軛を担うことになるので、更に担い易くされます。

  「休ませる」、「安らぐ」という言葉は、原語では同じアナパウオ-という言葉です。

  フィリピ書に、「主はすぐ近くおられる。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなた方の心と考えとを、キリスト・イエスによって守るでしょう」とあります。イエスの所に行くと、この人知を越えた神の平和が得られるのです。また、守るとは、守備兵が砦(とりで)を確実に守る時の言葉が使われています。イエス・キリストにある時、神の平和が守備兵のようにしっかり私たちを守るのです。

  また黙示録14章に、「私は天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。霊も言う。『しかり、彼らは労苦を解かれて安らぎを得る。その行いが報われるからである』」とあります。

  イエスの所には、最後決定的な安息。神に「よし」とされることによる安らぎがあります。人がどう言おうと、神の前で最後決定的に肯定されるのです。神によって義とされ、「あなたはそれでよし」と神によって義と認められるのです。肯定は部分的でなく、私たちの存在の全的な、全面的な肯定です。

  そのような中では、もはや律法のもとにはいません。福音のもとにいます。ですから希望が生まれます。希望が生まれると、明るくなり、身が軽くなり、生き易くなります。元気が出ます。

                              (5)
  最後に申し上げたいのは、イエスは私たちを義とされ、最後決定的に肯定されますから、この方の前に静かに留まり、心を静めて休むのです。

  そしてイエスの前に静まる時、イエスは沈黙の中で語って下さるので、それは休みであると共に、生きる喜びを与えるものになります。喜びも感謝も、生きることへの信頼も授けられることになるでしょう。そしてキリストの前で静まる中で、隣人と共に生きる勇気、イエス様に倣って、重荷を持つ人と分かち合おうという思い、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く者となろうという思いを与えられるでしょう。

  キリストが授ける休みは、明日の世界を切り拓く力を私たちに授けるのです。

            (完)

                                      
                                        2011年5月29日



                                     板橋大山教会   上垣 勝


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