心に静かな休みを


               5月22日には献堂感謝会が開かれ、青森や札幌からも参加者がありました
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                                            心に静かな休みを (上)
                                            マタイ11章25-30節


                              (序)
  今日は「心に静かな休みを」という題です。先週、献堂感謝会が終わると、心に静かな休みが与えられると楽しみにしていましたら、突然、Mさんが92歳で召されて、大波のような労働の日々が押し寄せ、「静かな休み」どころではない1週間でした。

  でも、半徹夜が続いて肉体は疲労しましたが、Mさんから、信仰を改めて深く考える機会が与えられたからでしょう。不思議と、「心に静かな休み」が授けられました。そして、皆さまのお支えでやっと今日を迎えることが出来ました。

                              (1)
  「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」とあります。

  色々の疲れがあります。肉体的な疲労。体力がなくなったための疲れ、そうですよね。生活の疲れもありますか。貧しさゆえの疲れもあるでしょう。地震津波の被災者、原発の被災者たちのお疲れは相当なものでしょう。横道に逸(そ)れますが、先の教会が潰れていたら大変だったろうという思いと、被災者のご苦労は大変だと思いますので、小さい教会ですが、地震前に耐震補強できた感謝を込めて、献堂感謝会に頂いたお祝い約11万円もそっくりプラスして、45万円程の支援金として送らせて頂きました。今後何年も苦しみが続くでしょう。伝道も困難を極めます。被災教会と被災者の皆さんにその少しでも連帯したい思いからです。

  「疲れた者」の中には、裁き合いのために疲れている者。家族内で裁判沙汰が起って、大変疲れている人もあるでしょう。また、心に葛藤が続いて疲労困憊している人もあるでしょう。前の訳では「すべて苦労する者」とありました。

  また多くの疲れの原因は、律法の下に生きているからでもあります。福音の下でなく、律法の下にいると疲れますし、重荷になります。現代社会は遊びが少なく、隙間がありません。「ネバならない」、「こうしなければならない」、「あれもこれも、絶対こうでなければならない。」大変律法的であるために、自由や遊びが随分カットされているので疲れます。

  律法のもとにいると、責められているようにも感じますし、自分を責めて、一人で心労することもあるのではないでしょうか。

  疲れることを余り次々申しますと、更に疲れるかも知れませんが、私は心の中で時々、際限なく論争して独(ひと)り相撲していることがあります。皆さんはどうでしょう。

  ある信仰者が書いていました。自分は心の中で、「自分自身と議論し、また友人と議論し、敵とも、支持してくれる人とも、反対者や同僚、競争相手と議論している。この内なる議論は、どれほど私の心があなたから遠いかを示している。」

  本当にそう思います。現代は誰しも、益々こんなふうになり易くなっています。心の中でこういう議論があり、激論もありますから、ほとほと疲れて、疲れているのに目が冴えて眠れなくなることがあるわけで、睡眠導入剤は現代人の不可欠の薬になって来ています。

  この信仰者は、「あなたの足元で、ただ静かに休めたなら、そして私があなたのもの、あなただけのものであると認めることが出来たら、周りの人との論争も想像上の人との論争もた易くやめることができるでしょう」と言っていますが、これも本当にそうだと思います。

                              (2)
  イエス様は、次に「重荷を負う者」にも呼びかけられました。

  イエスの目には、全ての人間の額に重荷を負って苦労する者という印が付いているのが見えるので、「誰でも」と言われるのです。

  家族の重荷を負う人。家族が重荷となっている人。これから先のことが案じられて重荷である人。経済的な心配と重荷。目に見えない、精神的な重荷。罪責の重荷。ハンディキャップを負って生きることの重荷。精神的トラブルを抱えた重荷。梅雨空のような、どんよりした虚無感で心が囚われている人。また、神を探して、まだ見つからずに疲れてしまっている人も含むでしょう。

  「誰でも」ですから、民族も国籍も言語の壁も越え、宗教をも越えて、「誰でも」です。

  Mさんは、松平家菩提寺である臨済宗のお寺に生まれながら、宗教の壁を越えて、「誰でも重荷を持ち、苦労している者は」と呼び掛けられるイエスのみ声を聞いたのです。37歳で洗礼を受けられました。大変勇気ある方だったと思います。

  喪主の方に、お葬式後のことをお聞きしましたら、T家のお寺は分骨を絶対許さないということでした。それで、じゃあどうされますかと申しましたら、分骨でなく、そっくり教会のお墓にお入れ下さいと言われました。Mさんは、自分はT家のお墓に入れない。だがそれでも「よし」、と考えておられたのです。Mさんの信仰はそういう決然とした信仰でした。喪主の方が挨拶で泣かれたのは、こんなお母のお葬式を約束通り教会で行ったという思いと、お墓に入れられない複雑な思いが万感胸に迫ってのことでしょう。Mさんは勇気ある方でした。

  「誰でも」とは、学があろうが無かろうが、家柄があろうが無かろうが、病気持ちであろうが、どんな人であってもです。神から遠く、長く離れてしまった人もです。

                              (3)
  これらの人たちにイエスは、「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と語られます。何と慰めに満ちた言葉でしょう。

  「休ませる」とは、前にも申しましたが、原語では、ピンと張った竪琴の緊張した弦を弛(たる)ませて、すっかり休みを与えるという意味を持っています。

  イエスの所に行けば、これまでの緊張が解かれて、本当に大きく深く息がつけて、休みが与えられます。律法的な「ネバならない」から解放され、魂の休息が与えられて寛(くつろ)げます。

  神は6日間で世界を創造し、7日目に全ての創造の仕事を離れて、安息なった。そして「第7の日を祝福し、聖別された」と創世記に書かれています。創造の神が安息なさり、休まれ、祝福なさったのです。

  イエス様による寛ぎには、ホッとした休息と共に、祝福も含まれます。魂が癒される安息だからです。そして元気を養われ、祝福されて再び次の仕事に向かうのです。

         (つづく)

                                        2011年5月30日



                                     板橋大山教会   上垣 勝


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