仏教とキリスト教の接点


                          ステンドグラスの取り付け
                               ・


                                          ヨハネ4章1-15節


  (葬儀説教。前回からの続き)
                              (2)
  文語訳聖書に、「善をなさんと欲する我に、悪ありとの法(のり)を、われ見出せり。われ内なる人にては神の掟(おきて)を喜べど、わが肢体(したい)の内に他の法ありて、我が心の法と戦い、我を肢体の中にある罪の法の下に虜(とりこ)とするを見る。ああ、われ悩める人かな。この死の体より我を救わん者は誰ぞ」とあります。

  分かっているができないのです。善をなさんと欲する我に、悪の法があるのです。体の中に別の法があって、罪の法の下に虜にするのです。こういう罪の現実に思い当たって悩めば、誰でも、「ああ、われ悩める人かな。この死の体より我を救わん者は誰ぞ」と言わざるを得ません。

  Mさんは、そういう渇ける魂をもって生きておられたということです。

  私たちがもし、人の靴を履(は)いて町を歩けば、随分違和感があって、きっと肩が凝るでしょう。ある時、父の靴を履いてみて、初めて私は父を理解したような気がしました。恐らく子供の靴を履いてみて、こいつがこうなのは、ここがこうだったのかと思ったりするかも知れません。人の靴を履いて、改めてその人の重荷を知ることが出来るような気がします。

  むろん、誰かが私の靴を履いて、やはりこの男は歪んだ、おかしな性格をしていることが分かったと思うかも知れません。

  初めてMさんのお宅をお訪ねした時、愛唱賛美歌をお聞きしましたら、昨夜歌った、「北の果てなる氷の山」という歌を言われました。これがキリスト教に出会って最初に聞き、引き付けられた歌でもあるそうです。

  それをお聞きして、私は非常に奇妙に思ったのを覚えています。というのは、愛唱賛美歌でこの歌を上げる人は少ないからです。これまでそんな人に出会ったことがありませんでした。

  それで、Mさんはキリスト教に出会った頃、どんなに凍えそうな魂をもって苦しんでおられたことかと思いました。この歌は、北の果ての氷の山も歌っていますが、次のところでは、焼けつく砂漠の砂原も歌っています。喉も心もからからでいらっしゃったのでないかと思いました。しかもその中で、「迷いの鎖、解き放て」と歌っている訳で、煩悩の中に苦しんでいた実にMさんにぴったりの歌が歌われていたと思いました。

  しかし、その凍えそうな魂が、キリストの愛によって暖められ、段々とその氷塊が融け始めて行って。神の愛によって融けて行った。それが嬉しくて、嬉しくて教会に通われるようになったということでしょう。

  そして、Mさんも、先ほどのイエスの、「しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われたことを経験していかれたのでしょう。

  それが、聖書通読100回につながったと思います。

  「永遠の命」とありますが、聖書では「永遠の光」というのも重要です。実は、これは仏教と関係があります。臨済宗ではありませんが、浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と申します。あの「阿弥陀仏」とはサンスクリット語で、アミターバ、アミターユのことです。これこそ「永遠の命」「永遠の光」のことです。仏教とキリスト教は実はあるところでつながっています。どこでどうつながるのか、その接点、それはまた別のところで申し上げますので、Mさんのことに帰りましょう。

  Mさんは一生懸命に聖書を読み、渇きを潤す水を飲んで行かれましたが、老衰と共に最後はそれもできなくなられました。目がかすみ、耳も遠くなり、やがて頭もかすんで行かれました。そう言う中でもう神さまの言葉も聞こえず、聖書からの慰めも頂けなくなってしまわれたのでないか、と思われるでしょう。

  だが、Mさんは既にその少し前に、一番好きな聖書の言葉を話しておられました。それは、ここにも小さな曾孫(ひまご)の赤ちゃんがおいでですが、「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われて来た。同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す」というイザヤ書の言葉でした。私とあるのは神のことであり、キリストだと言ってもいいでしょう。

  求め、求め、求め、求めた末に、だがもう耳も聞こえなくなり、目もかすみ、頭も回らなくなり、神の言葉を手にすることにも限界に達した時、向こうから、神さまの方から温かい手が伸びて来るのを感じておられた。「年老いるまで、私が責任をもってあなたを担い、背負い、そしてあなたを救い出す。」

  「ああ、われ悩める人かな。この死の体より我を救わん者は誰ぞ」という激しい叫び、氷の山、砂漠の焼け野原、そしてその故(ゆえ)が分からない過去のトラウマ。だが、そこからの救い出し、自力でない、他力的な救済です。それは必ずや、キリストがして下さるという信頼となって、この言葉に最後的に安心して委ねて行かれたのです。

                              (3)
  最初に申しました若奥様に伸びた手。それは大変雄弁な手であったと思います。感謝の手であり、和解の手であり、有難うの手であり、あなたがいてくれて良かったの手であり、もっと色々と雄弁に語る手であったでしょう。

  私はMさんから、魂の尊い歩みと出会いを教えられました。有難うございました。神は重荷から解放し全(まった)き休みを与えられました。苦労の多かった長い人生をご苦労様でしたと申し上げて、お話しを終わらせて頂きます。

       (完)


                                       Mさんの葬儀説教

                                       2011年5月28日(土)



                                     板橋大山教会   上垣 勝


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