聖書を100回読んだ人


                              光る少女
                                ・

                                       ヨハネ6章27節、32-35節


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  1919年(大正8年)はどういう年でしょう。朝鮮半島全域で、燎原の火のように3・1独立運動マンセー運動が起こった年です。日本はすでに1910年に韓国併合を行ない、大陸への進出を窺っていました。

  また、翌年の1920年頃から徐々に始まっていた世界的不況は、1929年に大不況となって世界を席捲(せっけん)して荒れ狂い、日本はやがて1931年の満州事変に始まり、15年戦争に突入していきました。

  ですから1919年は、まさに歴史の大転換期に当たる年だったと言っていいでしょう。

  その1919年2月28日に、Mさんは、現在の麻布十番近くの天真寺という、松江藩松平家と黒田藩主の菩提寺である由緒ある臨済宗のお寺の4女、末子としてお生まれになりました。寺のお姫さまとして、幼少時から行儀作法を厳しく躾けられ、殆どよそ様の子どもと自由に行き来したり、ふざけて遊ぶことなく育たれたようで、生涯に渡って、ご本人の言葉でいえば、人づき合いが苦手な、孤高を保つ資質を持って成長されました。

  恐らくその育ちのために、少し変わった人として、時には精神的にバランスを欠くものともなって表われましたが、ご本人も苦しまれました。ご本人の責任というより、幼少期に受けた魂の傷というか、何かのトラウマのようなものがそうさせたように思われます。

  女学校を終える頃に、右翼、軍部の台頭が著しくやがて軍国主義教育が激しくなりますが、Mさんはその少し前の大正デモクラシーの余韻をまだ留める頃に、少女時代を過ごされましたから、軍国主義に対しては一歩離れて見る冷めた目を持っておられたようです。

  そして、1903年に創設された、山脇学園高等女学校の家政専攻科をお出になり、建学の精神である「女性の本質を磨く」ということに向かわれたに違いないと思います。

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  その後一度結婚されましたが、1944年(昭和19年)4月に、25歳で東京電力に就職され、1975年まで31年間、定年まででしょう、お勤めになりました。

  その間、同じ会社にお勤めのご主人さまと素晴らしい出会いをなさって、1967年(昭和42年)4月18日に、赤門近くにある西片町教会で結婚式を挙げられました。司式は鈴木正久牧師で、当時、日本基督教団総会議長をしておられた非常に優れた牧師でした。

  教会で挙式し、ご主人のT様も、キリスト教を求める大変真摯な、度量の広い方であったとお聞きしたことがあります。Mさんは、その10年程前の1956年、37歳の時に世田谷の基督の教会で洗礼を受けておられました。

  Mさんが世田谷の教会から西片町教会に敢(あ)えて移られた所に、この姉妹の真理を切に求め、究めたいという渇ける魂があったように思われます。その頃の鈴木牧師の説教は、まさに天から神の言葉が直截(ちょくせつ)人の所に落ちて来るような深さと鋭さを持っていました。人間の心と社会、また歴史を深く掘り下げて洞察して福音を語っておられましたが、Mさんはそれに触れて、というより、激しく魂を打たれて、直ちに西片町教会へ移ったようです。その頃のことは、よくお聞きしました。

  幼少期からの孤高を保つ資質は、山脇学園の道徳的な、徳目的な教育で内省的なものを深められたのでしょう。人は環境の動物でもありますから仕方ありません。

  それにしても、戦後の自由な解き放たれた空気の中で新しい世界に目を開かれて行きました。それが戦後十年程してのキリスト教での洗礼になり、洗礼を受けて間もなくして、銀座の教文館で開かれていた聖書の夜間講座に2年間も通うという形になって現れました。

  東電に勤めながら、会社が引けると直ぐ教文館に向かい、確か9時頃まで授業がありました。当時、魂に渇きを覚えた優れた人たちがこの夜間講座に通っていました。聖書学、組織神学、歴史神学の各分野、時に、東大などの社会科学方面の方も講師で来ておられたように記憶します。この点は不確かですが…。

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  先ほど、ヨハネ福音書6章からイエスの言葉をお読み頂きました。「朽ちる食べ物のためにではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなた方に与える食べ物である。」

  Mさんが31年間東電にお勤めになられたのは、むろん生きるためであり、食べ物のためでもあられたでしょう。だが、姉妹はそれと共に、それを越えて、「いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働」こうとされたのです。

  最近は燃え尽き症候群と言ったりしますが、人生の途中で燃え尽きてしまわないためです。燃え尽きるどころか、人生を最後まで燃えながら生き、しかも最後の死をも乗り越えて、死の向こう側に歩いて行く、いつまでもなくならない永遠なものを目指して歩まれたのです。

  即ち、目に見える朽ちるものを遥かに超えて大切な、人間の存在を根源からあらしめ、その中核から意味を与え、支え、生かし、その存在に根源的な喜びと感謝を与える不朽のものに向かって歩まれました。

  人は肉体を維持するためにパンや食糧が不可欠であるように、魂を維持し、魂に生きる根拠を与える糧がどうしても必要です。その糧に与(あずか)る時、魂に生きる喜びと力が生まれます。

  「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」Mさんは、イエス・キリストから決して飢えることがないその糧を、晩年に至るまで頂戴していかれました。

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  Mさんは、大山教会だけでなく、日本全国のキリスト教徒にとって宝物のような方でした。

  ここには60歳代の方々もお見えのように思えますが、1984年、65才になられて聖書の全巻通読を始め、2007年7月までに、旧・新約聖書全巻を、何と100回にわたって通読された方だからです。聖書をお読みになられれば分かりますが、1回通読するのにも大変骨が折れます。それを、100回という殆ど前人(ぜんじん)未踏の通読をされました。

  100回という回数も驚くべきですが、88歳まで23年間も通読されて、毎回新しい発見があると語っておられました。実際に、初々しい感想を漏らされました。また、まだまだ私の信仰は駈け出しで、よく分からない所があると言っておられました。しかし、百代さんと聖書のお話しをするたびに、目を輝かせ、本当に楽しそうなお顔をされました。

  お殿様の菩提寺の格式のある厚い塀の中に生まれ育ち、孤高の資質を持たれたMさんは、やがてキリストによってその魂の渇きを癒されました。「我が心定まれり」というのでしょう。その後は、どんなことがあってもそこから動かれませんでした。

  人は70年、80年と人生は過ごすでしょう。しかし、魂の足跡と言えるものを持つ人は少ないものです。大変淋しいことです。だがこの女性は、幼少期から青年期、そして壮年期、向老期、晩年と、魂の軌跡ともいうべき足跡を記されました。即ち、いつまでもなくならない、朽ちないものに向かって進み、一個の人格として生きられました。

  そして昨日、5月26日朝、92歳と約3カ月で神のもとに召されました。

          (完)

                                     Mさんの前夜式に

                                     2011年5月27日



                                     板橋大山教会   上垣 勝


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