ステンドグラスに込められた意味


                 プロテスタントの板橋大山教会に入れられた麦のステンドグラス
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                                           地に落ちた一粒の麦 (下) 
                                           ヨハネ12章24-26節


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  6月は日本では「麦秋」の季節です。朝日や夕日を浴びて、麦畑はそよ風を受けて緩やかに波打ち、金色に輝きます。

  教会の2階に入れて頂いたステンドグラスの中央に、大きく卵型に弧を描いた巨大な黄金(こがね)色の一粒の麦を表現して頂きました。こんな巨大な一粒の麦は世界中どこを探してもありません。先ほど、マリアは一粒の麦になったと言いましたが、一粒の麦の最たるものはキリストご自身であり、聖書全一巻ともいえます。

  聖書66巻が語ることは、一重(ひとえ)に神のもとからこの世に来られ、人々に仕え、弟子たちや私たちを極みまで愛し、十字架の上で死なれたイエス。その愛の奉仕は地に落ちて豊かに実を結びました。イザヤ書55章に、「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない」とある通りです。キリストはみ言葉を世にまかれました。更に、キリストご自身が世にまかれた種でもあります。

  この度、2階の和室にステンドグラス作家の永田さんたちにこれを入れて頂いて、リフォーム工事が完了しました。都内屈指の素晴らしいステンドグラスだと語る人もあります。ぜひご覧になってお帰り下さい。

  このステンドグラスは、どこにもキリストの姿はありません。しかし、一粒の麦を中央に描いて頂き、キリストは一粒の麦のメッセージの中におられ、同時にこの麦をキリストご自身として象徴して頂きました。ですから、イエスのお姿は見えませんが、信仰の目でご覧くださればど真ん中におられます。

  そしてキリストの姿は、今も見える形で存在するとすれば、聖書全巻、この一巻がキリストのお姿と言うことができます。神やキリストのお姿を知り、その人格を知ろうとする人は聖書全巻をお読みください。聖書全巻を読むと神やキリストはどんなお方かが分かります。知ろうとしながら聖書全巻を読まずにいれば、いつまでたっても分からない…。

  ですから、この卵型の楕円に、聖書66巻を描いて頂いたのです。どう描いて頂いたかと言いますと、66人の顔で描いて頂きました。それぞれの書物は時代が異なり、書き手も異なりますが、創世記から始まって黙示録に至るそれぞれの書に相応しい顔です。どの顔がどの書か、想像力を働かせ、楽しんで下されば幸いです。

  麦は死ぬために生まれたと言っていいでしょう。自分の栄光をいつまでも手元に留(とど)めるためでなく、もっと積極的な表現をすれば、命を与えるために神さまから作られたのが麦です。地に蒔かれるにせよ、食べられるにせよ、自分に死んで、仕えるためです。今、私は私たち人間について語っています。

  自分を愛する者、自己愛に生き、自分を握りしめて手放さぬ者は、命を失うと言われます。その時には、神との関係の中で生まれた、人としての本来の最も根源的な命、使命を失ってしまうと言われるのです。

  キリストに従いたいと申します。キリストを信じ、大胆にしっかり従いたいと思います。しかしキリストに従って歩む時、私たちは、人々と分かち合う生活に招かれています。自分を隣人に与え、手放す生活です。仕える生活です。言葉を慎む奉仕、聞く奉仕、上でなく僕となる奉仕です。キリストに従えば従うほど、人々に開かれていきます。

  命は使ってこそ「使命」です。ろうそくは自分を燃やし、短くなりつつ光を放ちます。自分を擦り減らさないなら光は放ちません。却って闇黒を放つでしょう。

  その使命を果たした実例が、先ほどお話ししたイエスの母マリア。天使ガブリエルから受胎告知を受けたマリアです。ステンドグラスにこのマリアとガブリエル、受胎告知を描いて頂いたわけです。マリア崇拝やマリア礼拝のためではありません。神との根源的な関係に生きた女性、そして御子を宿した女性、マリアです。

  彼女は、「お言葉通りこの身になりますように」と語りましたが、それは、あなたのお言葉に従います。私をお使い下さい。「一粒の麦が地に落ちて死にますように」という意味です。

  それを更に別の言葉で言い表せば、「ただ信仰のみによって」、「ソラ・フィデ」ということです。このラテン語は、宗教改革時代に絶えず語られたプロテスタント信仰の中心です。それが、マリアのもとに、嬉しい知らせを持ち運んで来た天使が左手に持っているバナーのような細い幕、小旗に書かれたラテン語です。ただ信仰のみ、という意味です。

  これはマリアの信仰だけでなく、板橋大山教会に集まる者たちの目指したい事柄として表わしました。「お言葉通りこの身になりますように。」生活の中での神への真実な応答、ただ信仰のみによって生きるということです。

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  礼拝後、ゆっくり皆さまにご覧いただきたいと思いますが、このステンドグラスにはまだまだ隠された意味がございます。それらは、今日は隠されたままに致します。

  信仰の奥義も、聖書の奥義も、キリストも神も、光り輝く神秘に包まれています。その全てを解明したと誰が言えるでしょう。

  私たちは神の前に小さく留まりたいと思います。小さく、単純素朴に、神をほめたたえましょう。即ち、一粒の麦が地に落ちて死ぬのは、自分でなく、神をほめたたえるためです。それが人生と生活の究極です。

  そして、この小さな一粒の麦、単純さに徹した神への信頼、信仰に生きる時、必ず多くの実を結びます。多くのことに心煩わす時、多くの実を結ぶのではありません。神を信じ、単純素朴さに生きる時です。その時、神が働いて下さるからです。

  自分自身を騙(だま)してはならないでしょう。人に感銘を与える話をしようとか、名誉欲、自己顕示欲、褒められようとする心。また反対に、混乱した感情や気分、霧のようにかかった晴れない過去。いずれのぬるま湯につかっている所からも、外に出てキリストの光りの中に入って行きましょう。

  たとえ晴れない過去でも、そこに留まるのは自己愛です。その自己愛を後にし、神に生き、神のみ名の栄光のために生きるのです。キリストに向かって自分に死に、ただ信仰のみに委ねて生きるのです。

  そんなことは誰も自分の力でできません。皆さんはできますか。私はできません。それはキリストがして下さいます。ですから、ただ委ねることだけです。信仰のみです。それが永遠の命に至る道、真の命を得る道だとイエスは言われるのです。

     (完)


                                        2011年5月22日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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