マリアと一粒の麦


                   板橋大山教会に入ったステンドグラスの空の小鳥
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                                           地に落ちた一粒の麦 (上) 
                                           ヨハネ12章24-26節


                              (序)
  リフォームの献堂感謝礼拝に他の教会からもお集まり下さり有難うございます。この地にみ言葉の種がまかれて52年。これまで建物は貧弱でしたが、大塩先生を始め多くの兄弟姉妹によって信仰的に力強い教会が建設され、30周年には町屋新生教会を生み出しました。

  今回、建物の土台と柱や壁などで耐震性を高めるリフォーム工事を行ない、幸い3月11日の東日本大震災に倒壊を免れました。震度6強の地震に耐えるリフォームの初期の目的がほぼ達成された筈で大変喜んでいます。当初○○万円の工事を考えていましたが、多くのご献金を頂いて、結果的に設備も合わせ1千万円をオーバーする耐震補強工事として満足のいく事業をすることが出来ました。神さまの不思議な導きと皆さんのご援助に心から感謝を申し上げます。

  ご挨拶は午後の感謝会に譲って、聖書に入りましょう。

                              (1)
  さて、今日の短い聖句は、聖書全巻を凝縮するメッセージで、福音と生活の真髄を簡潔に宣言しています。

  「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。」前の訳は、「ただ一粒のままである」と、警告を強めて訳されていました。「だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」イエスは、そうおっしゃいました。「はっきり言っておく」とは、「アメーン、アメーン、レゴー、フュミン」、確かに、確かに、汝らに言うと、イエスが特に重要な場面で厳かに語られた言葉です。

  端的に申します。「地に落ちて死ぬ」とは、自分に死んでキリストに仕えること、神に仕えることです。どんなことがあっても人間と万物の根源であられる神に仕えることです。

  テモテ後書に、「キリスト・イエスの立派な兵士」として生きるようにと勧められて、「兵役に服している者は生計のことに煩わされず、自分を召集した司令官を喜ばせようとする」とありますが、万物の根源である神に仕えることは私的なことでなく、人と世の根幹なるお方に仕えることですから、本来、公な公的なことです。ですから、自分のことを後まわしにしてもキリストに仕えなさいと勧めるのです。

  ですから「地に落ちて死ななければ」という言葉に続けて、26節で、「私に仕えようとする者は…」と言われるのです。

  ボンヘッファーという人は、「共に生きる生活」という本の中で、仕えること、奉仕について書いて、幾つかのことを挙げています。

  一つは、「言葉を慎むという奉仕」です。キリストに仕える者は、兄弟姉妹への「言葉を慎むこと」、「舌を制すること」、自分自身が「陰口を言うのを禁じる」ことによって仕えると言っています。耳の痛い言葉です。

  また、「聞く奉仕」ということを言っています。「聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くありなさい」と聖書にありますが、「他の人の言葉に耳を傾ける」ことは、キリスト者の行なうべき奉仕だと言います。私たちは余りにも語るに早く、聞くに遅くあるのではないでしょうか。考えなければなりません。

  彼は、「神への愛は、神の言葉を聞くことから始まるように、兄弟への愛の始まりは、われわれが兄弟の言葉を聞くことを学ぶことである」と言っています。そして、「兄弟に聞こうとしない者は、やがて神にも聞かなくなり、神のみ前においても、いつもただ語るだけの人になってしまうであろう」と警告しています。これは牧師を含む私たちへの警告であろうと思います。

  第3は、「僕となる奉仕」です。

  これらを一言で言うなら、「あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、仕える人になりなさい」ということです。「真の権威は、権威を持ちたもう方に奉仕することにおいてのみ存在」します。上に立つことによってではなく、低くなり、僕になり、「自分の権威を求めず、み言葉の権威の下に身をかがめる」こと、仕えることによって真の権威はどこにあるかを証しできるでしょう。ボンヘッファーはそういうことを述べています。

  「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」とは、こういうことでしょう。

  「死ぬ」ことの反対は、25節の「自分の命を愛する」ことです。この「愛する」という言葉は、ギリシャ語のフィリアという言葉が使われています。意味は、自己目的としての愛です。自己愛です。最近の言葉で言うなら、自己中でしょう。

  真に自分を愛することと自己愛は紙一重です。どちらであるか、人には誤魔化せもします。自分にも誤魔化せるでしょう。でも神の目には誤魔化せません。似ていますが、紙一重で違いがあります。「死ぬ」とは、自己愛に死ぬ、自己愛を捨てることです。

  聖書の中には、自分に死んだ人が何人か出て来ます。その一人は、イエスの母マリアでしょう。マリアは地に落ちた一粒の麦であったと言えます。彼女は、「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられる」とガブリエルに言われて、戸惑い、考え込みました。恐ろしくもなりました。だが最後に、「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と言って応えました。彼女はとても勇敢な女性です。

  彼女は自分に死に、神の言葉に従って一粒の麦として地に落ちて死にました。個人的な思いを葬った時、彼女は神に用いられる女性になりました。そして大きな使命を果たしました。彼女は自分を召した方に忠実で、司令官を喜ばせる兵士のように、その方だけを喜ばせようとして、死に至るまで忠実に生きたのです。

                              (2)
  6月は日本では「麦秋」の季節です。朝日や夕日を浴びて、麦畑はそよ風を受けて緩やかに波打ち、金色に輝きます。

(つづく)

                                        2011年5月22日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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