予期しない所に来られる神


   ガブリエルの左手は印象的です。彼は「SOLA FIDE」というバナーを堅く握りしめています。「AVE MARIA」ではありません。ここに板橋大山教会はプロテスタント教会であるという明確なメッセージがあります。
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                                             容姿や背丈でなく (下)
                                             サムエル上16;1-13節


                              (3)
  今日のサムエル記が強調していることは、ダビデは自分の意志で王になったのでなく、神の意志で王になったということです。彼が成功した最も大きな理由は、彼の軍事的手腕や民衆を懐柔するテクニックではないということです。

  しかし神の意志でと言いますが、同時に彼は神の前に実に誠実であり、人々への愛が豊かで、真心が籠り、今日の交読詩編131篇はダビデ詩編ですが、「主よ、私の心はおごっていません。高くを見ていません。大き過ぎることを、私の及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」と、王であるにかかわらず実に謙虚です。また、「私は魂を沈黙させ、…幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」と神への信頼を美しく描いています。彼は自ら切磋琢磨する人物でもあります。切磋琢磨を欠いた、自分は神の意志で王になったという言い分は、既に神の意志から離れています。

  彼は、罪のない無辜(むこ)の人たちの血を流し、無慈悲さによって権力の座に就いたという噂もあったと記されています。妬みからでしょう。今日の個所は、その発言は誤りだと語っています。むろん実際には、彼も色んな過ちを起こしたでしょう。過ちのない人間などいません。また真実の所はどうであったかは、心を調べなければ分かりません。

  ですから聖書は、私たちを贖って下さる方がいなければ私たちはどうなるでしょうかというのです。

  それにしてもダビデは王冠を力ずくで奪ったのでなく、それは彼に与えられたのです。

  今日の続きを読むと、彼は背伸びをしない人ですし、いじけもしない人です。それはゴリアテとの戦いで分かります。

  彼はまだ羊飼いの少年でしたが、勇敢に天下無敵の巨大ゴリアテに挑みました。彼は、サウル王から鎧兜(よろいかぶと)を貸し与えられ、長い刀も持たされますが、彼は、「こんなものを身に付ければ、身動きもできません」と言って、王の目の前でさっさと脱ぎ捨て、普段持っていた石投げ器をもって戦い、ゴリアテを倒します。

  彼は身の丈に合った、等身大の武器で戦いました。

  私たちも見栄や外見で生きる必要はありません。容姿や背丈、財産や地位、家柄や職業など気にする必要はありません。ダビデが油注がれたのは、一介の羊飼いの時です。日本風にいえば農夫です。しかも一家で一番の末っ子です。兄たちは彼を辱める場面もあります。だが、そんな外見に囚われず、まじめに主の前で、真剣に等身大で生きればいいのです。

  サムエルは自分の前にエッサイの息子エリアブが来た時、咄嗟にこれこそイスラエルの王となる人と思いました。しかし主なる神は、「私は人間が見るようには見ない」と言ってその早合点を強く諌められました。

  サムエルは先見者とも預言者とも言われた人物ですが、それでも間違う時には間違います。しかし、彼は主から正されてからは、より慎重に、心を調べられる神に聞こうとしています。

  ダビデが連れて来られた時、見ると、「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」とあります。

  神は先に、姿、形で見ないと言われたので、彼はダビデを見て戸惑ったでしょう。ダビデの姿は立派で、目に美しい輝きがあり、惚れ惚れするような男っぷり。しかし、そんな器量の良い男は皆、選ばれず、捨てられるとなると、それもおかしいことです。

  ただここでも神はダビデの器量や外見でなく、心をご覧になったのです。このこともサムエルには思いがけないことだったでしょう。

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  将来の王ダビデへの油注ぎ。神の祝福と信任を意味する油注ぎ。このことはベツレヘムの小さな村で起こりました。

  この事件があってから約1千年後、夜空に星が美しく輝く晩に、この小さなダビデの町で一人の男の子が誕生しました。そして東の国の3人の旅人たちが、宿に泊まれず、馬小屋で生まれた貧しい男の子の前に跪き、黄金、乳香、没薬を捧げました。それは新しい王への捧げ物でした。

  この子はその後30数年して、エルサレムにおいて十字架の上で磔(はりつけ)にされました。しかし、この方が王の王、主の主と誰が思ったでしょう。誰も予期しないことでした。

  人は外見だけで見がちです。十字架に付けられる人間など碌(ろく)な人間はいないと見ます。しかし、神様は誰も予期しない所に来ておられ、そこに実在されるのです。

  私たちは外見の美しさや醜さに囚われて、自由を失ってはなりません。それを超えて神は働かれます。神の前で、神に向かって生きる時、自信と確信が得られて来ます。

         (完)


                                       2011年5月15日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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