容姿でなく心によって見る


     天使ガブリエルは素朴な田舎の青年のよう。「うれしい知らせを持って来ました」とにっこり語ります。右手の確かさはそのメッセージの明るい確かさです。
                      (板橋大山教会に入ったステンドグラス)                                     ・

                                             容姿や背丈でなく (中)
                                             サムエル上16;1-13節


                              (2)
  話しがあちこちに行き、小難しくもなりましたが、サムエル記に戻りますと、サムエル記の時代は、今から3千年前の話しです。イスラエルの民は出エジプトを果たした後、乳と蜜の流れる地と言われるカナンに帰り、そこに定着しました。

  そこでギデオンやデボラ、サムソンといった何人もの勇士、士師と言われた人たちが輩出します。彼らは王ではなく、預言者、民族の指導者です。その後今日の所に出て来たサムエルがイスラエルの指導者となり、預言者、祭司として登場します。

  しかし、サムエルが老人になって衰えると、民衆は不安の余り、「王を立てて下さい」、近隣諸国のような王様を下さいとサムエルに強くせがみます。だが王制は神の意志でなく、むしろ対立するものです。「神こそ、ただ一人王」だからです。だが民の強い求めでサムエルは、サウルという人に油を注ぎ王として擁立するのです。

  最初はサウルは謙虚でした。だが、手腕を発揮し自信が付くにつれ、神に仕えているように見せかけて人々を動かし、社会を動かそうとして行ったのです。

  その結果、彼は神によって王座から退けられるのですが、サムエルはサウルに油を注いだ手前、煮え切らないのです。

  今日の1節に、「主はサムエルに言われた。『いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。私は…彼を王位から退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。私はその息子たちの中に、王となるべき者を見出した』」とあります。所が2節でサムエルが、「どうして私が行けましょうか。サウルが聞けば私を殺すでしょう」と答えるのがそれです。彼は煮え切らず、サウルを諦めきれず、恐れるのです。

  しかし、最後にはベツレヘムに行きます。ただ新しい王を擁立するために来たとなれば大ごとです。町の長老が不安を覚えて、「おいで下さったのは、平和なことのためでしょうか」と問うているのはそのためです。サムエルはあくまで、「平和なことのため」、単にベツレヘムで神様に生贄をささげて礼拝し、会食をするためだと通します。

  こうしてエッサイの子たちのをそこに招いて、その中から将来の王を選ぶ場面になります。最初に来たのは長男エリアブでした。サムエルが見ると、「彼こそ主の前に油を注がれる者だ」、この人物こそイスラエルの王に相応しいと、咄嗟に思うのです。確信した彼の姿が明瞭に書き留められています。

  所が、主はサムエルに、「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」とおっしゃったとあります。神は心がどうあるか、どう働いているか、どっちに向かっているかによってその人をご覧になるというのです。

  後世の画家たちが描いていることですが、イエスの弟子ペトロは決して男前と言えません。パウロに至っては、意志的ですが全く不細工な容姿です。お腹の出っ張りは自分に責任がありますが、顔かたち、容貌は自分の責任ではありません。でも、自分の責任だと思いやすいです。むろん年をとれば顔にも人格が現れがちです。ただ、主は心によって人をご覧になるのです。

  これは凄いことです。凄いこの言葉に安心できますよ、自分などは。この言葉がなければ、明るくなれない人も多いかも知れません。自信を与える言葉です。

  テレビ時代は、目に映るものを大事にしがちで、NHKの女性アナウンサーなどは採用資格に「美人であること」という暗黙の基準があるんでしょうか。女性だけでなく最近は男性も化粧しています。だが人の本質はそこにないと、聖書は言うのです。整形手術は不要です。

  言わば心の手当てこそ大事です。その心、魂がどこにあるか。スタンドプレーでなく、主の前に、主に向かって誠実に生きることが大事です。

  でも、自分は心が汚れていると言う人があるかも知れません。内省的な方はそんな見方をなさるかも知れません。だが、主の前に、主に向かって生きようと、一歩、心と体を押し出すと吹っ切れます。

  キリストは私たちを辱めるために来られません。私たちを変貌させ、造り変えるために来られました。私たちを最も悩ませているもの、また弱さ、それをも用いて造り変えて下さるのです。心が汚れている。そういう者を贖って清くして下さる。

  イエスは、「私はぶどうの木、あなた方はその枝。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言われました。

  今は、ブドウのつるがドンドン伸びる時期です。家に甲州ブドウなどの木がある方はご存知でしょうが、今の時期、ブドウのつるを切りますと、ポタポタと樹液が滴り落ちます。

  木は一生懸命に小枝に樹液を送っています。それは外から見えませんが、見えないが事実です。イエス様も私たちに命を注いで下さっている。だから、このイエス様の前に、イエス様に向かってつながって生きようと、一歩、体を押し出して生きる。心をご覧になる、目に映ることをご覧になるのでないと、一層イエス様を仰いで生きるのです。

  こうしてつながっていくと、喜びと平和が心に訪れます。神だけが私たちを正しくお導き下さり、喜びと平和、信頼、安心を心にお与え下さる方だからです。

           (つづき)


                                       2011年5月15日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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