自分の過去を読み直す


         マリアの目は大きく見開き遠く神のみ心深くまで目を注いでいます。そこが魅力的です。
                      (板橋大山教会に入ったステンドグラス)
                               ・

                                             容姿や背丈でなく (上)
                                             サムエル上16;1-13節


                              (1)
  旧約聖書は時々非常に込み入っていて、理解するのに骨が折れます。今日のサムエル記上下もそうですし、次の列王記上下や歴代誌上下もそうです。

  また、どうしてこれ程多くの対立、反乱、大量に人を殺す戦争を描いているのでしょう。それは人間がこれまで歩んで来た歴史の実相、事実であるのを示すためですが、人類が長く辿って来た罪の深さを改めて思わざるを得ません。

  王の失脚と後継者たちの王位継承争い。政治的な継承問題は現在も後を絶ちません。野党になれば、与野党一丸となって当たらなければならない非常時でも、与党追及に終始していますし、与党になれば、何とか政権を維持しようとして選挙に勝つための媚びた議案を作っています。

  こうした醜い争いの歴史が人類の歴史ですが、旧約聖書はその歴史を辿りながら、同じ一つの現実が違った視点や対立する角度から書かれる場合もあって、全体を統合して一本にしようとしないこともしばしばです。創世記の人の誕生の記事も幾つかの書き方をして、無理に一つにしないのもその良い例です。

  それは、一筋縄でいかないこうした罪の複雑な歴史の歩みの中にも神が実在され、働いておられることを見て取ろうとしているからでしょう。言葉を換えて言えば、民の歴史の中に神がおられることを探しながら、信仰の視点に立って歴史を読み直しています。

  そういう意味では、私たちも自分の歴史を振り返って、あの時神がこういう形でいて下さった。ここにも別の姿でおられたと、自分史を読み直すことが必要かもしれません。

  浜辺に残された「足跡」の有名な話があります。古い方はご存知でしょう。ある人が夢を見ました。人生を長く辿って来て、どの場面でも自分とイエス様の2人の足跡が砂の上に並んで残されているのを見たのです。興味を持って、ずっと過去にさかのぼって見て行きました。

  すると、時々一人の足跡しかない場面が幾つかあったのです。それでイエス様に聞きました。「どうしてあの辛い時、悲しい時、あなたは私の側にいて下さらなかったのですか。私が信仰を持って歩こうとした時、あなたは今後いつも一緒にいると約束されたじゃあありませんか。所が一番苦しい時、倒れそうになっていた時はいつも、足跡がただ一つだけじゃありませんか。どうして私を見捨てられたのですか。」

  するとイエス様はにっこりされて、「愛する子よ、私はあなたを愛している。あなたを見捨てたりしない。ひとりの足跡しか残されていないのは、あなたが一番苦しかった時、倒れそうになっていた時、私があなたを背負って歩いていたのだ。あれは私の足跡だよ」とお答えになった。そこで夢から覚めて、思わず自分の不信仰を懺悔し、イエス様に感謝したというのです。

  これはまさに歴史の捉え直し、読み直しです。サムエル記や列王記は、信仰に立ってこういう読み直しを民族のレベルですることによって、目に見える表面的な事柄とは違って、神がどのように民を導いておられるかを理解しようとしたのです。あるいは反対に、人間が行なうあれやこれやの大きな目論見やまばゆい程の企みにもかかわらず、そこには神がおられず、単に人間の業だけがある場合があり、いつしかそれは大きな失敗に至ることを明らかにしています。バベルの塔の物語などはまさにそうです。

  神の呼びかけに、頑なで、聞く耳を持たない傲慢な心が、そういう結果を招きます。信仰において歴史を読み直す時に、ある事件がこれまでと違った受け止め方をしなければならない場合があるわけです。

  巨大地震が起こり、20世紀に人類が生みだした原子力エネルギーとは何かを、今私たちは新しく受け止め直そうとしています。原子力はうまくいっている時は効率はいい。だが、原子炉が暴走したり制御できなくなる時には、人類と地球の生物全体を危機に曝します。人間の手を超えた、手に負えないエネルギーです。それを隠さず、率直に認めなければ、人類の前進も繁栄もありません。日本人だけの問題でなく、世界を危険にさらす問題です。使用済み核燃料を最終的に扱う技術をまだ作っていないのに、危険な使用済み核燃料を出し続け、年々蓄積して来た。放射能の危険を子孫に押し付けているわけです。

  着陸の車輪が出ないのに、飛行機を飛ばしているようなものです。危険な胴体着陸しかない。原発はある点を過ぎれば、片道切符です。そこに問題の由々しさがあります。

  地震を契機に、原子力の見直しをする必要があるでしょう。そうなるなら、この事故が返って人類を救う事故になるかも知れません。

  サムエル記などはそういうことをしているのです。

         (つづく)

                                       2011年5月15日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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