子どもをいらだたせてはならない


                        坂下から見上げるステンドグラス
                               ・


                                          子どもたち、父親たちへ (下)
                                          コロサイ3章20-21節


                              (2)
  さて21節は、「父親たち、子どもをいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」とあります。これも殆ど説明しなくても内容はお分かりでしょう。

  ただ、母親たちと言わず、どうして父親なのか。今日では不思議です。母親も少なからず子どもたちを苛立(いらだ)たせているのではないかと思うのですが。違いますか?母親の方が苛立たせることが多い、ですって?

  それはそのままにして、後で触れるかも知れませんが、私たちはここを読んで、パウロという人は、何と現代的なテーマを獄中で思い巡らし考えていたか、本当にすごいと思わされます。

  どういうことかと申しますと、現代社会は非常に競争的です。そのため、多くの親は子どもたちを小さい頃から勉強やお稽古事で奮起させ、奮発させているのではないでしょうか。社会から取り残されたくないためです。

  実は、21節の「いらだたせる」というギリシャ語は、「奮起させる」「奮発させる」という意味をもっています。

  奮起させ、奮発させ、気力を奮い立たせ、やる気を起こさせるのはある程度良いことでしょう。「やる気を起こさせる子育て」といった内容の本は、飛ぶように売れます。若い父親も母親も教育熱心で、自主性、自発性を伸ばし、やる気を起こさせたいと、そのためにはどうすればいいかを必死に考えています。若いお母さんたちは幼稚園で知り合った園児のお母さんたちと楽しそうに一緒に群れたりしていて、遠目には皆心が一つの仲間という感じですが、お友達の子供より自分の子が少しでもやる気があるとホッとするのだそうです。

  この「やる気を起こさせること」ですが、奮起や奮発させることがちょっと度を越しますと、子どもを「怒らせ」、「いらだたせ」、「いらいらさせる」のです。今風にいますと、子どもたちは「頭に来て、切れる」のです。それがここで使われている、「父親たち、子どもをいらだたせてはならない」という言葉です。

  パウロは、「いらだたせてはならない」と言った後、「いじけるといけないから」と述べています。

  どういうことかと言いますと、小さい頃から余りに奮起させ、奮発させると、子どもたちは途中で燃え尽きてしまうことがあるのじゃあないでしょうか。今日、色んな世代で燃え尽き症候群というのが起こっています。この燃え尽きが、ここにある「いじける」という言葉です。気落ちさせてしまうのです。

  どうして2千年前の人が今日の問題をこんなに的確に考えることが出来たのか。

  パウロは古代社会の中で、子どもたちを奮発させ、その過剰でいらだたせ、燃え尽きてしまわせ、いじけさせ、元気を失くさせ、落胆させ、気力をくじくものを、父親たちの厳しい躾(しつけ)の中に見ていたに違いありません。即ち、パウロ時代以前からすでに萌芽がありましたが、やがてプルタルコスという人によって本格化するスパルタ教育です。厳しい鍛錬を施し、強い戦士、したたかに勝ち抜いていく指導的な覇者を作っていくスパルタ式教育です。パウロは、それがかえって多くの子たちをダメにしてしまう有様を見たに違いありません。

  むろん何人かはそれに耐えて、頭角を現すでしょう。だが1人が頭角を現す傍らで、99人が脱落し、燃え尽きてしまうのです。それが古代のスパルタ教育です。現代社会にあるのと、ほぼ同じ現象です。

  名門と言われるある音楽大学では、図抜けた演奏家を年々輩出しています。ただ実際にその大学に入ると、一学年で一人、飛び抜けた国際的演奏家が生まれればいい。他の雑魚(ざこ)のような人間どもはどうなってもいいというような教育をしていると言われます。実際にそこを卒業した人などが言っているわけです。これは野球でもサッカーでも、また科学の世界でも、今日、あらゆる所でこれに似た現象があるのではないでしょうか。特に名門校と言われる所で強く現れます。

  子供たちは、一番になるために早い時期から競争を強いられ、奮い立たせられ、また苛立たせられる。そこに罪をもつ人間社会の歪みをパウロは見ていたに違いありません。彼自身、ガマリエル門下生として非常に優秀で早くから頭角を現しましたが、やがてキリストと出会って挫折し、新しくキリスト者として再出発しました。彼はキリストの恵みに触れて自分の罪に出会い、そこから2千年後の現在社会さえ見通す力が与えられました。彼の人間社会の洞察はキリストとの出会いから来ています。

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  最後に、なぜ親が子どもたちを苛立たせ、子どもらがいじけたり、切れたりしてしまうのか。そのことに触れて終わります。

  それは、父自らが本当の自分とまだ和解できていないからではないでしょうか。自分の弱さ、罪、挫折を単に自覚すると言ったことではありません。そもそも存在の根源であるお方と和解できていない。神との和解という非常に深い所から、自分の弱さや罪や挫折の問題を捉えていない。

  言葉を換えて言えば、平和と喜びがまだ真に魂にないからです。競走の価値観のみが強くあります。なぜ生きているのか、その根本のところがまだはっきりしていない。小手先の器用さで人生を乗り切っているだけだからです。

  だから苛立たせてしまい、いじけさせてしまいがちになります。そして、苛立たせてしまい、いじけさせてしまうのは、自分自身が、親自身が深い所において今も苛立ちがあるし、いじけている所があるからではないでしょうか。

  そんな中から、子どもたちに強さを押し付け、過剰な要求をしてしまいます。社会のプレッシャーを受けて、それを子供に反映してしまう。人の弱さと罪と挫折への本質的な理解を欠いて、ただ社会が求めている要求を子供にぶつけてしまうからではないでしょうか。社会的地位の高い家庭で時々起る親子の事件は、大抵こういう様相を呈しています。

  箴言(しんげん)に、「主を畏れることは知恵の初め」とあります。また、コヘレトの言葉に、「汝の若き日に、汝の造り主を覚えよ」と書かれています。

  真の賢さは神を知るところから来ます。存在の根幹になるお方を知ることです。愛の神を知ることです。神によって愛され、受け入れられ、私たちの存在が赦されていることを知ることです。私たちは神に愛される値打ちがあることを、証明する必要もありません。弱さも罪も挫折も存在の吹けば飛ぶような小ささも、主に受け入れられて、赦されています。そのことを知る時、親自身が自分をいらだたせるものから解き放たれ、自由にされて生き始めるのではないでしょうか。親自身が、自分の真の姿は神の小さな子供であり、どんなことがあっても愛されていることを知って、神を畏れて仰ぐことです。

  どんなにひねくれた子の中にもキリストがおられます。住んで下さっています。良い子の中や、自分の中だけにおられるのではありません。そして自分もまた、キリストが見えなくなり分からなくなる存在ですが、そういう者とも共にいて下さるのがキリストです。

  子どもたちは神からの贈り物です。親の所有物ではありません。やがて子どもは羽が生えて、必ず飛んでいきます。再び戻って来ないこともしばしばです。ある人は言っています。「親であるとは、見知らぬ旅人を気前よくもてなすようなもの。子どもたちは見知らぬ客人のような者。…もてなしを求め、良き友となり、そののち、再び彼ら自身の旅を続けるために去ります。」

  私たちが神に属しているように、子どもらも神に属しています。彼らがどれだけ気づいているか分かりません。だが、気づかなくても神に属しています。ですから、子どもらを送り出した後は、彼らが神との関係をもって歩いていけるように、背後から祈るだけであります。

           (完)


                                       2011年5月8日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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