親への囚われから救われて


                     板橋大山教会に取り付けられたステンドグラス
                               ・


                                          子どもたち、父親たちへ (上)
                                          コロサイ3章20-21節


                              (1)
  パウロは今、エフェソの獄中から手紙を書いています。彼ほど神とキリスト、「上にあるもの」を求め、「主に喜ばれること」を願った人はいません。彼の生涯は、主を仰ぐ生涯であったと言っても、言い過ぎではないでしょう。

  その彼が獄中から、妻たちや夫たち、また子どもたちや父親たち、そして奴隷やその主人の日常生活のあり方を諭したのが18節以下です。

  「子どもたち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです」とあります。神を仰ぎ、主に喜ばれるあり方というのは、ただ神様を仰げばいいというのでなく、地上の身近な人にどう対するかによって表わされると、彼は考えていたからです。

  言葉を換えて言えば、キリストによってこの世から自由にされ、救われ、解放されたあなた方は、世の上に立って世の人たちを見下ろしたり、一方的にこの世の秩序を否定したり断罪したりするのでなく、むしろ隣人を愛し、仕える。他者に対して自ら進んで地上で仕える。喜びをもって自発的に仕えて行く。それが上にあるものを求め、キリストを仰ぐ者の生き方だと考えていたためです。


  さて、「どんなことについても両親に従いなさい」とあります。しかし現実には、どんなことについても両親に従うのは困難でしょう。家庭によっては、親子の仲はうまくいっているように見えても、そこには様々な葛藤や壁があり、実の親子であればある程あからさまなケンカがなされることがあります。

  また比較的多くの子供たちが、親への失望や積もり積もった感情、時には許せない思い、育てられ方への厳しい批判、更には恨みのようなものをもっていたりします。

  そういう人にとっては、「どんなことについても両親に従いなさい」という勧めは中々難しく、到底飲めるものではない方もあるでしょう。

  では、なぜこういう勧めがあるのでしょう。少し福音書のイエスに立ち返って考えますと、イエスは、「私の名のために家、兄弟、姉妹、父、母、…を捨てた者は、その百倍もの報いを受け…」と言われたことがありました。

  イエスは、「捨てる」ということが親子関係、家族関係に重要なことと見ておられます。それは親子や家族関係を新しく掴み直すためです。捨てるというと無謀だと思われる方がおられるかも知れませんが、結婚については、「人は父母を離れて、妻と結ばれ、二人は一体となる」と言われ、妻と結ばれるために親からの自立、親離れが不可欠だと言っておられますが、ここでは「捨てる」と言われます。

  先ず捨てて、イエスにのみしっかり従って行くのです。その時、新しく彼らを迎えることが出来るようになります。捨てるのは、彼らへの囚われから離れるためです。マイナスの囚われからも、プラスの囚われからも、です。囚われがあるから怒りも悩みもモヤモヤも大きくあるわけであって、一度彼らから離れ、捨てて、キリストに行く。そして次にキリストに従う者として、彼らを大きく受け留め直すのです。キリストはそれ程の大きさ、懐の深さをお持ちです。いや、天をもお容(い)れできるお方です。

  20節に、「どんなことでも両親に従いなさい」と言われ、「それは主に喜ばれることです」とあるのは、今述べました理由があるからです。

  ですから、わがままな子どもに言い聞かせるために、手紙の著者が親に代わり、社会を代表して、親孝行を勧めている訳ではありません。そういう親孝行道徳を説いているのではありません。

  ですからこれは友人や妻子に対しても、また家や財産や持物に対しても妥当する生き方です。親離れだけでなく子離れについても言えます。


  「子供たち」と言われている人たちは、年齢の幅があります。10代、20代、時には30代に亘るでしょう。それ以上のこともあります。10代や10代未満のまさに子供たちには、直接素直に当てはまるでしょう。しかし20代、30代になっても血肉では今も親の子です。だが、今やキリストに愛され、信仰において神の子供とされ、本質的には既に神の子であって、親から離れ、独立し、血肉の親の所有物でなく、本質的にはその下にはいない人たちです。

  ですから、自分の親は親ですが、肉親の親としてよりも、キリストにあって、新しく親として受け留め直す。キリストにあって、親を身近な隣人として発見し直すということです。

  ですから、「どんなことについても両親に従いなさい」とは、昔のいわゆる長幼(ちょうよう)の序や親孝行の勧めではありません。むしろキリストにあっての新しい生き方です。

  パウロは獄中にありながら、この世にあってのキリスト者の生き方を、信仰から深く考えていたことがここから分かります。

                              (2)
  さて21節は、「父親たち、子どもをいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」とあります。これも殆ど説明しなくても内容はお分かりでしょう。

  ただ、母親たちと言わず、どうして父親なのか。今日では不思議です。母親も少なからず子どもたちを苛立(いらだ)たせているのではないかと思うのですが。違いますか。母親の方が苛立たせることが多いですって?

  それはそのままにして置いて、後で触れるかも知れませんが、私たちはここを読んで、パウロという人は、何と現代的なテーマを獄中で思い巡らし考えていたか、本当にすごいと思わされます。

        (つづく)

                                       2011年5月8日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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