夫が家事を手伝うと離婚が少なくなる


                       ブルーベリーの花は今真っ盛りです
                               ・

                                            妻たち、夫たちへ (下)
                                            コロサイ3章18-19節


                              (2)
  ですから、今度は夫に対して、「夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」とあるのは、当然と言っていいでしょう。

  「つらく当たる」という元の言葉は、ピクロスというギリシャ語です。ピクロスというとピクルスを思い出して、辛(から)かったり、ピリッとしたりするピクルスを連想させる言葉です。

  ピクロスの方は、痛烈で厳しい態度を指します。また、疼(うず)くような、辛辣な、苦みある言葉を言います。

  夫婦というのはいつの間にか、そんな辛辣な、傷つける言葉を吐いていることがあります。それで疼いて、腹が立ってやり返してしまいます。今笑っている人たちはそんなご経験をお持ちなんでしょう。

  そんな中、19節は夫に対して、「妻につらく当たってはならない」と語っています。辛辣な、疼く言葉を語ってはならない。ただ今日では、妻の方もそんな言葉を夫に語ってはならないと書く必要があるかも知れません。

  現在は共稼ぎ家庭が多いですが、昔は、夫だけが働くのが普通でした。すると、経済を握っている者がどうしても強い実権を持ちます。草食系でなく肉食系男子の態度です。すると強い態度で、更には横暴な態度で「つらく当たる」ことも起り、狂暴に振舞うこともあり、相手を辛辣に傷つけて、何ら意に関しないことが起こりがちです。

  そうした場合、妻の方は一言も言えずに忍従することになったりしたでしょう。昔は舅姑も小姑もいて、嫁の立場は大変でした。即ち、夫婦が人格的信頼関係で結ばれないで、上下関係で結ばれ、力関係になっている場合が多くありました。

  19節の勧めの中心は、「妻を愛しなさい」ということです。「つらく当たる」とは、愛を働かせないことの一例です。それが一例として取り出されているのでしょう。


  「妻を愛しなさい」という勧めも、3章前半と関連しています。

  12節に、「あなた方は神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」と勧められていました。夫も、神の愛の下に生かされています。ですから、「妻を愛しなさい」という勧めは、妻を労(いたわ)り、慈愛と謙遜と、柔和と寛容をもって思いやることを具体的な内容としているでしょう。また13節には、「責めるべきことがあっても赦し合いなさい」とありますし、14節には、「これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛は、全てを完成させるきずなです」とありました。

  愛は全てを結び付け、完成させる最高の徳だというのです。

  一昨日は、イギリスのウイリアム王子とケートさんの地味婚と言われながら、全く華やかなロイヤル・ウエディングがありました。母親のダイアナ妃は結婚式で、「夫に仕えなさい」という言葉を嫌って、その聖書の言葉を省かせたそうですが、その後それは、夫に従順に仕えようとしないダイアナ妃の象徴的な言葉として引用されるようになりました。今回はエフェソ書でなく、当たり障りがないようにローマ書が読まれました。

  「妻を愛しなさい」という言葉は、「夫に仕えなさい」という言葉とむろん違いますが、聖書的には全く同じです。本質は同じです。ダイアナさんはそれを嫌がったそうですが、仕えるということが省かれると、愛するということも省かれて行きます。そこでは愛の苦労が省かれ、愛の苦さも辛(つら)さも省かれて、甘さだけを享受しようとしていきます。

  しかし、結婚の愛は、甘さと共に、辛さも悲しみも苦労も一緒に分かち合って共に仕える性格のものです。それが「仕える」ということが省かれる時に、抜け落ちるとても大事なものです。共に苦労する時に、喜びに変わるからです。

  私が言いたいのは、「妻を愛しなさい」という勧めの中に「仕える」ということも含んでいる。相手を思って苦しむことも、悩むことも含んでいる。もし「仕える」ことを愛から外すと愛でなくなるということです。

                              (3)
  話しは変わりますが、夫が家事を手伝う家庭は、離婚が少ないのだそうです。そういう研究が海外でなされています。今日、日本で起こることはほぼ欧米で起こっていますし、欧米で起こることは日本でもほぼ起こっていますから、この離婚のことも日本でも似たり寄ったりだと思います。

  現代は男女平等の時代です。多くの若い家庭は共稼ぎです。ですから、夫婦のどちらが、どの雑用をするかが大事になります。

  夫婦という一組の男女の関係はとても微妙で、複雑です。努力しても評価されないこともありますし、雑用をすればする程、当てにされ、当てにされるならまだしも、当たり前になって、相手はどうも思わなくなる場合もあり、一言、「ありがとう」を言ってくれれば済むのに、当然という顔をされると腹が立つわけです。手伝わなくていい、向こうへ行っておいてと言いながら、「ため息」をつかれる場合もあります。もう諦められている。

  ある人が書いていました。「自分は靴下を脱いで丸めておくと妻が片づけ、シャツを掛けておくと片づける。何でも片づけてくれる。自分が死んだら、すっかり片づけられて、自分はこの家に存在しなかったかのようになるのでないか。」

  またある共働きの家庭では、夫は物草で、結婚して暫らくは夫も家事を手伝って欲しいと言っていたが、今はもう言うのも疲れて何も言わなくなった。でも時々、食後、流しにお皿を積み上げて置いて、洗ってくれるかと期待するがちっともしない。近頃は、職場は職場で仕事が忙しく、家に帰れば家で、ほぼ全ての家事労働を自分がする。その上に自分の働きを夫は評価しようともしない。昔はイライラして手伝いを頼んだが、今は深く傷ついて、とうとう最近、離婚届を突き付けたそうです。そうまでなったのは、家事の協力がないのが決定的だったというのです。

  「妻を愛する」とは、「つらく当たってはならない」とはどういうことか、これらのことから具体的に考えさせられます。また、「主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい」ということも具体的にはどう言うことかも示唆されます。

  皆さんのご家庭に主が宿られ、共におられて、祝福のあふれるご家庭になられることを祈ってやみません。

  日本のキリスト教徒はごく少数です。コロサイ地方のキリスト教徒も同様に少数でした。そのような場所で、キリスト者がどう生きるのか。パウロは今、獄中から、その生き方を考え、祈り、アドバイスし、勧めているのです。

          (完)


                                          2011年5月1日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


       ・ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/ 

       ・板橋大山教会への道順は、下のホームページをごらん下さい。
                   http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/