響き合うパートナー


                       郊外の野辺は自然いっぱいのガーデンです

                                            妻たち、夫たちへ (上)
                                            コロサイ3章18-19節


                              (1)
  「妻たち、夫たちへ」となっていますが、私は上から物を言いたくありません。むしろ自分自身が、聖書から「妻たちよ、夫たちと」と呼びかけられている一人の人間としてお話し申し上げたいと思います。

  「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい」と、夫でなく、先ず妻たちに勧められています。妻と夫の関係はエフェソ書や第Ⅰペトロにも出て来ますが、いずれも妻に先ず呼び掛け、夫に仕えるように語っています。

  日本では、近年まで男尊女卑の傾向が強かったですが、むろん現在も強い所があちこち残っていますが、今から2千年程前のローマ世界では、どこでも男尊女卑の仕来たりが厳しくありました。ですから考えようによっては、男たちに先ず呼び掛けるべきだとも考えられますが、そういう社会だからこそ、先ず妻が夫に仕えるべきだと教えたのでしょうか。

  確かにパウロは社会習慣については是々非々の態度を取っています。ですから、当時の人たちに受け入れられやすい順番で、先ず妻たちに、そして夫たちにと語ったとも考えられます。しかし、今日の教会のように、教会には婦人が圧倒的に多数を占めていたでしょうから、そのために、先ず妻たち、女性たちに語ることをしたのかも知れません。その辺の事情は、著者本人に聞かなければ実際はよく分からないでしょう。

  ただ、パウロが妻たちに「夫に仕えなさい」と語る時、その理由、根拠が重要です。世の男尊女卑の封建主義的なあり方から語るのではありません。そうではなくて、「主を信じる者にふさわしく」ということが、夫に仕える根拠です。

  それは今日の個所の直前で、「すべてを主イエスの名によって行い」と勧めていることからも分かるでしょう。即ち、夫に仕えるのは、主キリストが先ず、まるで僕のようになって弟子たちの足を洗って下さって、あなた方も互いにこのようにしなさいと勧められたからです。また、イザヤ書に、「彼は自らを償いの献げ物にした」と書かれているように、実際に十字架の上で肉を裂き、血を流して私たちのために奉仕されました。また、「謙って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」お仕え下さった。だから、妻たちに「すべてを主イエスの名によって行い」、「夫に仕えなさい」と勧めている訳です。

  このことは3章の前半で言われたことでもありました。1節には、「あなた方は、キリスト共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」とありました。「上にあるもの」とは、キリストにおいてあるものです。また3節に、「あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」とあります。「あなた方の命」とありますが、「あなた方の一番大事な生き方」と言い換えてもいいでしょう。すると、あなた方の一番大事な生き方は、「キリストと共に神の内に隠されている。」キリストがどのように生きられたか、その中にあなた方のあり方も仕舞い込まれている。そこから学びなさいということです。

  イエスの奉仕を根拠として、「主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい」と勧めるのです。

  男尊女卑の社会をキリスト教によって補完するためではありません。男尊女卑の社会秩序は、単に社会の上下関係の身分制や封建的な絶対性を強固にするためです。だが、パウロがここで勧めるのは、主が愛されたように夫を愛し、主が仕えられたように夫に仕えるということです。

  身分的な男尊女卑というのは、愛のない有無を言わせぬ権力的な抑圧です。それは屈従を強い、卑屈さを生み、隷従や隷属を強要するものです。それは主がなさったことと正反対です。彼は妻たちに仕えなさいと勧めますが、彼は夫に、妻に対して、「自分に仕えさせなさい」と言っている訳ではありません。その辺も大事なことです。そんなことを夫から命じられると、話はまた違って来ます。

  「主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。」ここにあるのは、夫と妻の人格的な信頼関係を創り出す勧めでもあるでしょう。

  夫婦が、相手と人格的関係を創っていく。これ以上にクリエイティブな仕事はありません。パウロは今、エフェソの獄中にいます。彼は獄中で、夫婦の在り方の大切さ、妻と夫の信頼関係を築くことの重要さを思ったのでしょう。私たちの具体的な生活は家庭生活にあります。古代では特にそうです。というのは、家庭の中の一組の男女の人格的な響き合いがある中で、その音色を聞きながら小さな子たちは育つからです。もし、諍(いさか)いだけを聞き、争いだけを聞いて育つなら、その子もそのような家庭を作ることになるでしょう。生活が歪(ゆが)むかもしれません。世界の紛争の解決方法は家庭の中で養われるとすれば、家族の人格関係を創り出す仕事以上に大きな仕事はないと言っても過言ではないのではないでしょうか。

  そして実際、イエス・キリストは弟子たちとの間に人格的な関係を作り出して、この世を去る直前には、私はもはやあなた方を「僕と呼ばない。友と呼ぶ」と言われました。

  妻と夫の信頼関係が進んで行く方向は、友の関係、あるいは同志の関係です。それが18節で、含蓄深い言葉で言われていることです。

  アダムとエバの話しが創世記に出て来ますが、神はアダムに、「人は一人でいるのはよくない。彼にふさわしい助け手を作ろう」と言って、女を造られたとあります。助け手とはヘルパーではありません。アシスタントでもありません。パートナーのことです。しかもそのパートナーは、ふさわしいパートナー、ふさわしいとは、原語に沿って訳すなら響き合うパートナーです。心が響き合うパートナーとして神は男と女をお造りになったのです。まさに同志としてお造りになったのです。

                              (2)
  ですから、今度は夫に対して、「夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」とあるのは、当然と言っていいでしょう。

         (つづく)

                                          2011年5月1日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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