信仰は演技か、お芝居か


                    郊外に出て散歩するといつの間にか心が癒されています
                               ・

                                         ガリラヤでお会いできる (下)
                                         マルコ16章1-8節


                              (3)
  さて7節は、「さあ行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる」とありました。

  ガリラヤは弟子たちの故郷であると共に、イエスによって弟子として召された場所です。そして数年間イエスと寝食を共にして宣教した思い出の場所です。

  ですから、ガリラヤは最も強くイエスの不在を感じる場所になるでしょう。彼らはイエスにだけ希望を置いていたからです。ですからガリラヤこそ絶望をイヤという程味わう場所になるでしょう。

  「イエスは殺されたではないか」と、村人たちから揶揄(やゆ)されるでしょう。弟子として情熱的に従ったのは、まるで若気の至りであったかのように、顔が曇り、うつむかざるを得ないのでしょうか。


  しかし、墓の中で若者は、「あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる」と告げたのです。

  キリストの方が、弟子たちより先にガリラヤに行き、そこで弟子たちを待っていて下さるのです。キリストを裏切っただけでなく、キリストを失い、呆然自失して絶望の中にいた弟子たちを、復活のキリストはガリラヤで待っていて、大きく腕を広げて彼らを受け留めて下さるのです。死んだキリストでなく、死に打ち勝ち、勝利された希望のキリストが待ち受けて下さるというのです。

  彼らはたとえ絶望してしまっても、希望のキリストは永遠の愛、以前と変わらぬ愛を持って受け留めて下さるのです。

  ガリラヤで、キリストがいますかのように生きるのではありません。信仰は、おられるかのように生きることではありません。復活のキリストが活きて交わり、出会って下さるから活きた喜びが生まれるのです。かのように生きるとすれば、信仰は演技です。復活の主がいるかのように演じる。それはお芝居です。もしキリスト信仰がそういうものなら、この世で最も悪どい詐欺、ペテンでしょう。多くの宗教が形骸化するのは、その中心が単なる思い込みや演技に過ぎないからです。

  神がいるかのように祈り、キリストがいるかのように説き、復活があったかのように話す。それ程人を騙(だま)す行為はないでしょう。もしそうならキリスト教徒以上に惨めな、欺瞞者はいないでしょう。

  「ガリラヤ…そこでお目にかかれる。」婦人たちは墓に行ってイエスの亡骸(なきがら)に香油を塗り、過去のイエスと出会おうとしましたが、現在に働かれる活ける復活のキリストと出会えるのはガリラヤ。現代のガリラヤは21世紀の私たちの現実生活の只中です。ガリラヤという最も現実的な日常の暮らしの場においてであり、人々の冷静な目がある、ごまかしが効かない所においてです。

  復活の主は、あなた方より先に行って、そこでお目にかかれるのです。

  私の友人は浦安で約35年間開拓伝道して、暫く前にC型肝炎であると診断され引退しました。大教会の株分けでできた教会ではありません。そうではなくて、車いすのご夫婦が教会に行けないので、お二人の面倒を見て伝道くれないかと頼まれ、狭いアパートに住んで、重い障害を抱えたご夫婦と開拓伝道されました。

  重い障碍者たちを抱え、その現実はごまかしがききません。普通なら伝道に足手まといと考えるかも知れません。だが彼はこのお二人を中心に置いて伝道を始めたのです。キリストがお二人と現実におられることを証ししつつ伝道したのです。彼は一人っ子で、結婚してもお母さんを連れて生活し、奥さんのお母さんも引き取っての伝道でした。

  彼は最も困難なごまかしのきかない道を歩きました。ところが最も困難な道に、活けるキリストが待っておられて、キリストが働いて下さり、やがて教会は10人、20人…50人、60人と増えて行きました。増えただけでなく、障害者と共にある教会として用いられて行きました。

  彼は驚くほど心低い謙虚な人で、こういうことが出来たのは、ただ許されて、神によってできたのですと心から思っているのです。

  「ガリラヤ…そこでお目にかかれる。」では、私たちのガリラヤはどこでしょう。困難があり、闘いがあり、絶望もある。そこから逃れてどこかへ行ってしまいたいガリラヤはどこでしょう。あるいは昔は良かったと、過去へと戻りたくなるガリラヤはどこでしょうか。だが、そこにキリストがおられ待っておられるのです。

  ガリラヤを避けていては活けるキリストに出会うことはできません。キリストはあなたのガリラヤで出会おうと待っておられるのです。私たちには絶望のガリラヤかも知れないが、希望のキリストがそこで待ち受けて下さっているのです。

  今年のレント、40日間の受難節の只中に地震津波原発事故の三重苦が起こりました。この40日間程は日本の最も困難な時期でした。だが、希望の主がおられます。打つ手はあります。麦は踏まれてこそ寒波にめげず強く育ちます。弟子たちにとってイエスの死は全くの行き詰まり、絶望、虚無でした。だがその完全な絶望と闇から、今や全く新しいことが始まったのです。それが主の復活イースターでした。「夜も光が私を照らす」ということが起こったのです。

  すっかり行き詰った日本の国難に、新しい日本の復興、復活が起こるように祈りましょう。

(完)


                                          2011年4月24日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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