世界一の長寿者、木村さん


                                         ガリラヤでお会いできる (上)
                                         マルコ16章1-8節

                              (序)
  昨日の嵐が去ってすっかり晴れ上がり、今日のイースターにリフォーム完成総員感謝礼拝を皆さまと持つことが出来たいへん嬉しく思います。今日は久しぶりにTさんがお嬢さんのNさんと来られることになっていますが、まだ着いておられません。先ほどは、S.J.さんの転会式をすることができました。この日が、Jさんの信仰が強くされ、信仰の再出発になるように期待します。またご夫妻にとっても、信仰の一歩前進になるようにお祈りしています。

                              (1)
  マルコによる福音書は西暦60年代に書かれた最古の福音書ですから、今日の個所にはイエスの復活の最古の報告が記されています。

  土曜日の日没と共に安息日が明けて、3人の婦人たちはイエスの体に塗る香油を買いに行きました。日没と共に新しい日が明けたと申しました。頭がちょっとおかしくなる気が致しますが、向こうでは一日は夕刻に始まります。その意味は別の時にお話しいたしましょう。翌朝、日の出と共にイエスが葬られたお墓に赴きました。婦人たちの心配は、墓の入り口に転がされていた非常に大きな重い墓石をどうして脇にのけるかということでした。そういう心配を持ちながらも、無残に殺され、そのまま直ぐに墓に葬られたイエスを、改めて手厚く葬るために、何とかその遺体に香油をお塗りしてお別れしたいという思いで、とりあえず墓に急いだのでしょう。

  彼らの姿は、被災地で葬るすべなく家族を土葬した被災者の悲しい思いにもつながります。

  ところが墓に着き、目を挙げて見ると、巨大な石はすでに脇へ転がされ、墓に入ると、何と白い長い衣を着た若者が、墓穴の右手に座って彼らを待っていたのです。

  5節に、婦人たちは「ひどく驚いた」とありますが、薄暗いお墓の中に見知らぬ男がいるのを見ただけでも、薄気味悪く、怖かったに違いありません。ただマタイ福音書は、彼は天使であったと記しています。

  すると若者は、「驚くことはない。あなた方は十字架に付けられたナザレのイエスを探しているのでしょうが、あの方は復活なさってここにはおられない。ご覧なさい。ここがお納めした場所である」と告げたのです。

  婦人たちは、思いがけない言葉に更に驚きました。イエスは2日前の金曜日に十字架に釘づけされ、番兵たちから太い槍で脇腹を突き刺されて無残な死に方をなさったのをつぶさに見ていたからです。それは、余りにも残酷な堪え難い最期でした。

  そのようにして殺され、死んでしまわれたに拘わらず、「復活なさった」と、到底信じられないことを薄暗いカビ臭い墓穴で告げられて、恐れと驚きのあまり気絶しそうになったに違いありあません。8節に、「婦人たちは墓から出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とあるのは、決して大げさでなくまさに事実その通りだったでしょう。

  死人が復活したと聞いて、不気味さと恐怖で口もきけなくなったのも当たり前でしょう。

  この恐怖が、やがて喜びに変わり、力強い希望のメッセージに発展し、「イエス・キリストは主である。教会と世界の主である」という喜ばしい使信となって前進するには、少し時間が必要でしたが、イエスの復活の出来事が人々の間に呼び起こした最初の驚愕が、今日の個所に書きとめられている訳です。

  イエスの復活がなければキリスト教は生まれませんでした。もし復活がなければ、婦人たちがイエスの亡骸を手厚く葬ろうとしたように、遺骨や亡骸への礼拝、または偉人崇拝のような遺徳を讃える新興宗教は生まれたかもしれませんが、キリスト教は起こらなかったでしょう。孔子を慕う孔子廟のように、イエスの人徳を慕う、後ろ向きの宗教が起こっただけでしょう。

  しかし、婦人たちの恐れとおののき、震え上がる程の不気味とも言えるキリスト復活の体験がやがて時間と共に歓喜に変わった時、主の復活は彼らを根本的に変革して行きました。キリストの復活は私たちの生き方を根本的に変革する、リアリティを持つ神の出来事であるからです。

                              (2)
  さて、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」ということは、何を告げているのでしょう。

  先ず、人は誰も死を免れることはできず、厳しい冷酷な死の支配の下に置かれていますが、有無を言わせぬ死の力もイエスを死の下に閉じ込めておくことはできなかったということです。

  地震津波原発のニュースばかりで余り他のニュースを目にしませんが、先日、京都の木村次郎右衛門さんが114才で、世界一の高齢者になったことが海外の新聞で取り上げられました。こんな時期ですから日本でもトップ記事になってもよかったと思うのですが、82才になる奥さんを失くしたご長男と、58歳のお孫さんと住んでおられるそうです。世界一になったので赤飯を炊いてお祝いしたと書かれていました。外国語で赤い豆とお米を炊いてと書いていましたが、向こうの人はどんな食べ物だろうと思い巡らしたでしょう。おめでたいことです。

  でも、この方もいずれ死の力を免れることはできません。しかしイエスは有無を言わせぬ死の絶対的な力を砕き、黄泉の中から復活していかれたということです。

  キリスト教というのはとんでもない事を信じています。復活の信仰、甦りの信仰、死に勝利する凱旋の信仰です。イエスは十字架で肉を裂き、血を流し、私たちに対する神の怒りを宥められました。墓穴で3日間横たわり、私たちに安息をもたらされました。そして罪と死に勝利し、復活して人の世の暗闇に光を輝かせられました。

  「死の陰の地に住む者に光が輝いた」とは、イエスの誕生と共に始まり、今、この方の復活によって、命の光が「死の陰の地に」この世に輝いたということです。聖書に、「夜も光が私を照らす」とあるのは、復活された御子キリストの救いの輝きは、暗い私の夜の現実の中に、希望の光となって照らして下さることを指しています。

  「あの方は復活なさって、ここにはおられない」ということは更に、主キリストは、死と罪の中に亡びる身である私たちを解放し、死にゆく者に希望を授けられることを意味しています。その希望とは、私たちの復活の希望です。

  主が再び来られる再臨の時、私たちは死人の中から甦る。永遠の眠りから目覚めて、主の復活に与って私たちも復活する。私たちも死者の中に閉じ込められることはないのです。

  「あの方は復活なさって、ここにはおられない」ということ。主は墓におられないこと。しっかり考えて下さい。これ以上に私たちに勇気を与えるものはありません。イエスが復活して墓におられず、私たちも復活して死に支配されない。故に、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな。誰を恐れるべきかを教えよう。殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ、言っておくが、この方を恐れなさい」というみ言葉は真理であり、真実であります。

  主が墓におられないこと。このことが私たちを慰めるのです。ここから、信じる者すべてが喜びを与えられ、尽きぬ命の泉が流れ出して来るのです。

  「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」この方こそ、馬小屋の飼葉桶で寝ておられたお方です。後に、罵られ、鞭打たれ、平手で叩かれ、唾され、責め苦を受け、やがて喜びの復活の出来事が輝き渡ったお方です。だから、私たちはみ子に栄光と賛美と誉れとを帰すのです。また、我らの主キリスト、天と地とをご支配されるお方と歌うことが出来るのです。

         (つづく)

                                          2011年4月24日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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