原発事故は想定内の愚かさ


                      やわらかな光が差し込むようになった窓
                               ・


                                            心に何を宿していますか (下)
                                            コロサイ3章16-17節



                              (3)
  原発のことに今日も触れてしまいましたが、刻々と変化する原発の深刻な状況を知ることは不可欠です。しかし、もう1つ重要なのは、今、私たちはどう過ごせばいいかです。原発問題を知れば知る程、私たちの将来はどうなるのかと、不安が大波のように打ち寄せます。私たちの近辺にも、パニックになっている人が少なからずある筈です。その人のせいでなく、パニックになるのが当然な事態だからです。

  しかし、私たちがまず心に留めたいのは、地震津波も、また人間の愚かさから発生した原発事故であっても全ては主の御手の中にあることです。神が起こされたのでありませんが、これらの現実も神の手の中にあります。

  イエスは、「あなた方はこの世では悩みがある。しかし、すでに私はこの世に勝っている」と言われました。イエスは私たちの悩みも恐れもご存じです。この原発トラブルをイエス様はご存知でないのでなく、この事柄はイエスがおられない無関係の所で起こっているのでなく、その御手の内にあります。イエスはこんな結果になるのはすっかりご存知である、人間の罪と愚かさの中で起こっている。地震原発事故も人間の想定外でした。だがイエスの想定外でなく、想定内で起こっている。

  しかも、「すでに私はこの世に勝っている」と言われるのです。原発のトラブルを越えていく困難な道を、既に開拓し切り拓いて下さっている。「すでに私はこの世に勝っている」とは、そういう内容をもっています。

  私の心を今特に捉えているのは、「肉体を殺しても魂を殺すことのできぬものを恐れるな。魂も身体も、地獄で滅ぼすことのできる方を恐れよ」という言葉です。放射能は身体を殺せても、魂まで滅ぼせない。だから放射能があってもいいというのでなく、無闇に恐れてはならないということです。

  原発の汚染が更に酷くなるのでないかと怯えている方や、直ぐにでも東京から脱出しなければならないのでないかと心配している人たちが相当います。既に逃げた人たちもあります。しかし、私は、東京ではまだ逃げ出す時ではないと思います。

  また、たとえ万一逃げ遅れても、だって関東から3千万人が一挙に逃げ出すとすれば大混乱が起こって逃げ遅れるかも知れません。そのために放射能に汚染されても、私一人ではないと思います。他の人たちも汚染されるに違いない。そうであれば、教会や家族や色んな事があってたとえ直ぐに逃げ出せなくても、その状況の中でベストを尽くせば、それで主は最善のよい道を備えて下さるでしょう。たとえ被爆して、悲惨な状況になったとしても、同じような境遇に置かれる人があるでしょう。ならば、共に多くの人と重荷を負い合って生き、自分もその痛みを負いつつ人の重荷を負い、また負われて生きる。現代社会が課した痛苦を痛苦として担い、痛む人と共に生き、互いに重荷を負い合って生きていく。そういう中で、試練を乗り越える力を主は授けて下さるだろうと思います。私は万一の場合、その状況の中でそう生きたいと思っています。

  今できることは、不安な思いを抱えながらも主を信じて心を平静に保ち、落ち着いて生活することです。それで精一杯であり、それでいい。

  預言者イザヤは7章で、「信じなければ、あなた方は救われない」と語りました。

  今日は最初に、昨日の強風のことを申し上げました。ヒマラヤ杉の背の高い大木は、梢が強風に揺れてヒューヒュー唸っていました。放射能のことで林の木々のように私たちの心がざわついています。しかし、イザヤは、ざわつくのでなく、主を信じ、落ち着き、静かにしているなら救われると申します。

  「信じなければ、あなた方は救われない」とは、元々は「アーメンでなければ、あなた方はアーメンとされない」という言葉です。アーメンとは岩のように確固として確かなこと、落ち着いて断固たる様を指します。

  あなた方は、断固として神の確かさにアーメンと語り、確かにそうですと応じていなければ、確かであることはできない。断固、アーメンとして信頼していくなら岩のように確かにされるというのです。私たちはそのようにありたいと思います。

  ケンブリッジで、同じ教会に通っていたインドネシア若い女性牧師がおられました。その後、アメリカで博士号を取って、今はまたインドネシアで伝道しておられます。

  この方がこの間メールを下さって、義捐金を送ろうと相談しているが送っていいかというのです。私は躊躇しました。というのは、インドネシアでは地域差がありますが、例えばウエートレスなどの給料は1万円弱です。しかもまっとうな職を持つ人が少ない。経済力は私たちの20分の1程度です。そんな人たちから頂いていいのかと戸惑いました。

  しかし、そういう方々だからこそ、受けていいのでないかと、頭を切り替えて返事しました。送られて来れば、私たちの支援献金と一緒にするか、別にするかして、被災地に送ろうと思います。貧しい国の、日々の生活が困難な人たちからの祈りと思いやりと支援を有難く感謝して受ける。日本円にして小額であっても、その連帯の印はとても大きな意味が詰まっているのでないかと思ったからです。

  この婦人牧師がしようとしておられることが、今日の、「心から神をほめたたえなさい」ということであり、17節の、「何を話すにせよ、行うにせよ、全てを主イエスの名によって行い」なさいと勧められていることだと思います。

  私たちも、「全てを主イエスの名によって行ない」たいと思います。全てをイエスの名によって行うとは、全てを主イエスを思いつつ行なうことであり、イエスの名に委ね、その名を信じて行なうことです。また、イエスの名があがめられるように行ない、イエスから離れずに行ない、主がその行いの上に留まって下さるように祈りつつ行なうことです。

  被災された方々のために祈りましょう。

         (完)

                                          2011年3月27日




                                     板橋大山教会   上垣 勝


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