謙虚さと原発事故


                    3月29日、そのお家は植物園のようなお庭でした
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                                            心に何を宿していますか (上)
                                            コロサイ3章16-17節


                              (序)
  白木蓮が咲いたと思っていましたら、もうこぶしが小さめの白い花を一面に付けています。自然は黙っていますが、時々物を言うんですね。昨日がそうでした。ケヤキやサクラはまだ葉を落としているので風が自由に吹き抜けていきますが、ヒマラヤ杉の背の高い大木などは、梢から太い幹まで強風に揺れて、梢がヒューヒューと音を立てて舞っていました。こういう自然に接しますと、私は幸せな気持ちになります。皆さんもきっとそうでしょう。

                              (1)
  さて、再びコロサイ書に戻って来ましたが、今日の16節に、「キリストの言葉があなた方の内に豊かに宿るようにしなさい」とありました。

  豊かに宿るとは、沢山の言葉を聞いたり、多くの言葉を覚えて、宿るようにと言うより、無論、多くのイエスの言葉に接するのはいいことですが、たとえ一つの言葉でも、それが深い味わいとなり、魂を貫く深い意味の発見となり、また心の奥深く刻まれて、力強く宿るようになることです。

  そうなるのは、キリストが行ない語られた言葉が豊かな意味を備えているからです。そして、それに応答する時、それに与る者の心と生活の全分野に行き渡り、深く広く浸透するのです。

  宿るとは、家族のように永続して共存することを意味します。キリストの言葉に住んで頂くことでもあるでしょう。ほんの少しでもキリストの言葉が住んで下さるなら、キリストが住んで下さることですから、それで充分です。

  ですから、宿るようにしなさいというのでありますから、キリストの言葉が私たちの胸の内に住み、その言葉と生活し、対話し、影響を受け、その言葉から実生活に押し出されて行くことを勧めています。

  前の教会の一人の婦人は、38年間ある会社にお勤めでした。吸収合併したり、時には縮小されたり、日本社会の歩みと共に色んな浮き沈みを経験しながら、会社と共に38年間勤められました。信頼できる人だからおれたのでしょうが、兄が経営していたので居続けることも出来たのでしょう。

  日々刻々、会社では色んな事が起こります。それでこの方は、会社の机に敷く透明のビニールのマットの下に、「油断することなく、あなたの心を守れ」という箴言の言葉を挟んで仕事をしてこられました。今の聖書では、「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命がある」となっています。人の言葉や態度が気になります。しかし、人を問題にする前に自分の心を問題にし、それを守れ。あるいは、キリスト者として良心的に生きることでしょうか。

  何気ないことに見えますが、「キリストの言葉があなた方の内に豊かに宿るように」とは、このようにすることです。各自が工夫して、キリストの言葉に養われるようにすることです。

  この箴言は続いて、「曲った言葉をあなたの口から、ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ」とあります。別の人なら、こちらの言葉の方を38年間マットの下に挟みたいかも知れません。人それぞれ一番必要なみ言葉があります。

                              (2)
  16節は更に続けて、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と語ります。

  初代教会では詩編が歌われました。これはユダヤ教の習慣を受け継いだものでしょう。しかし、キリスト賛歌が作られてそれも歌われていたようです。恐らく、1章15節以下はそのキリスト賛歌の一つだと言われています。フィリピの信徒の手紙2章6節以下も、キリスト賛歌の一つです。霊的な歌とは、今日の賛美歌の源流をなすものでしょう。当時から色々な工夫がなされて、感謝や賛美の言葉や祈りの言葉、また魂を貫くキリストの言葉が胸にしっかり刻まれるように作られ歌われたのです。

  また、キリストに仕えるため、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合う」よう勧められています。

  教え諭し合うのは、「互いに」です。誰かが一方的にこうだ、ああだと押し付けるのでなく、互いに教え、互いに諭し合う。それは誰か人間が一方的に支配するのでなく、キリストに支配していただくためであり、キリストが益々あがめられるようになるためです。このような相互性が大事です。

  福島の原発トラブルの肝心な炉心部分は危なくて、なかなか手をつけられません。高濃度の放射能汚染で、作業が進みません。もしかすると修理不能どころか、原子炉内を調べることすらできずに、チェルノブイリ原発のように厚いコンクリートで密閉しなければならないかも知れません。ただチェルノブイリは1基ですが、福島は4基です。当時、ソ連は遅れていると言われていましたが、今になれば果たしてどうなのでしょう。

  病気には色んな種類があります。鬼の撹乱のように突然襲うものと、ずっと自覚症状がなくて、分かった時は手遅れの場合などです。チェルノブイリは一挙に爆発しましたが、福島はこの分だとジワリジワリと何十年にも亘って、高濃度の放射能がしつこく滲み出て来る形になるかも知れません。

  また、海水をかけて高レベルの放射能で広範囲に汚染されていますから、どう空中にまき上がり、海中に溶け、どう福島はじめ近県の土壌を広範囲に汚染するかです。チェルノブイリは川の汚染でしたが、今度は海の汚染です。海の汚染の場合、放射能が砂浜に打ち上げられ、それが風に乗って巻き上がることがあります。

  斑目(まだらめ)という方は有名な人です。現在、原子力安全委員会・委員長という我が国原子力政策のトップの方です。前は東大教授でいらっしゃいましたが、今は委員長になられ原発の権威者として原発の政策が行われて来ました。

  その方はご自分は謙虚だと言っておられました。そう言いながら、「こんなことが心配だ、あんなことが心配だ、こんな可能性もある、こんなことも起るかもしれない、そんなことに耳を傾けていれば原発なんて作れない。そういう言葉には耳を貸さず、割り切って進まなければならない。」そう言って、庶民の言葉に耳を貸されなかったのです。

  それが今度、わたしたち庶民が素朴に疑問に思っていたことが現実になったのです。全国で公聴会が開かれ福井でも開かれましたが、私たちの言葉に耳を貸されませんでした。私たち庶民の方がおかしかったのでしょうか。それとも原子力安全委員会・委員長の頭の方が現実的でなかったのでしょうか。

  ですから「互いに」ということが大事です。それが謙虚さです。専門バカと言うことがあります。誰かが一方的に支配するのでなく、謙虚に誰もがキリストに支配して頂き、キリストが益々あがめれるようになる。こういう相互性が大事です。

  「感謝して、心から神をほめたたえなさい」とあります。「ほめたたえる」とは、その恵みに注目して素晴らしいことだと盛んに語ることです。祝うことであり、感謝することでもあります。

        (つづく)

                                          2011年3月27日


                                     板橋大山教会   上垣 勝


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