同じ魂のふるさと


                        謙慎書道展に入選した知人の書

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                                            あなた方に平和があるように (下)
                                            コロサイ3章15節


                              (3)
  リュコス渓谷にあるコロサイの小さな町やその周辺地方は、ローマに通じる街道筋にあたっていましたが、まだまだ未開の地域です。土着の因習の強い諸宗教があり、また当時ローマ世界だけでなくイラク、イラン、パキスタン、インドにまで広範囲に及んで影響を与えていたグノーシス思想によって、コロサイのキリスト者たちも心を乱されることがしばしばあったでしょう。

  今日は触れませんが、2章に出て来た「世を支配する霊力」という言葉で説かれた宗教的教え、「哲学」などがそうであったということは以前にお話ししました。

  そうした中で、著者はキリストの平和で心が支配されることの意義をよく知っていたのでしょう。キリストの平和で心が支配され、その喜びで満たされるなら、そこから明らかに創造的な働き、新しい命あるものが生まれ出て来るからです。平和と喜びこそ福音が授ける命ですが、この命は新しいものを生んでいく力でもあります。

  また、心にキリストの平和がある時、穏やかにものをなすことができます。一時いっときを穏やかに落ち着いて生きることができるでしょう。愛を働かせる心の余裕が生まれます。他者への心配りが出てきます。

  たとえ平和が全くない所でも、平和の糸を紡いでいく気長な生き方をやめることはなくなるかも知れません。平和は、オール・オア・ナッシング。イチかバチかの事柄ではないからです。今は早春で、「どこかで春が生まれてる。…どこかで芽の出る音がする」という季節ですが、平和の小さな芽も必ずどこかで吹き出すものです。

  また心にキリストの平和がある時には、荒々しい毒ある言葉や態度を無毒にして行く手当てがなされるでしょう。火に油を注ぐようなことは起こりません。箴言に、「柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる」とある通りです。また、「優しく語る唇は、説得力を増す」ともあります。

  このことは家庭や職場だけではありません。あらゆる社会でそうです。反対に、「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す」と箴言は語ります。

                              (4)
  今日の聖書は次に、「この平和に与らせるために、あなた方は招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい」と語ります。「この平和に与らせるために、招かれて一つの体とされた」ということは重要です。

  ここからすれば、キリストの体である教会に来ているのはその平和に与るためです。キリストと人格的に交わることによって平和に与るのです。そして、誰でもキリストと人格的に交われば交わる程、ますますキリストの平和が与えられていくのです。ですから、言葉を換えて言えば、キリストという永遠の霊的人格と人格的に出会うために教会に来ています。

  そして、私たちはむろん個々人が独立して生活を営んでいますが、私たちは皆、キリストの一つの民です。一つであるキリスト教共同体の一員です。天国に国籍を置く神の国の民です。一つの体です。そこに同じ魂の故郷(ふるさと)をもっているということは極めて大事なことです。

  現代は個人主義の時代であり、個性の時代でもあり、色々の知識人や異色な人が色々の説を唱えて世に輩出し、人を引き付けています。その取り巻きも多くいます。また文章でアジる、アジテーターたちもいます。私たちも色んな人の影響を受けて生きています。それが普通です。

  だがその時も、私たちは神の民であるという自覚を持ち、いつもキリストの前に帰って来て、キリストと交わりを持つことが大事です。

  というのは、人はどんなに素晴らしく見えても、時代と共に変節したり、社会変化の大波に巻き込まれて態度を変え、うまく立ち働いて立場を変えたりすることがあり、それが弱さを持つ個々人だからです。自己保身が私たちをそうさせます。

  和辻哲郎という哲学者がいました。戦前から戦後にかけて活動しました。「古寺巡礼」とか「風土」という名著を書いて世を風靡しました。青年時代、私もそれらに接して影響を受けました。

  しかし太平洋戦争の末期に、和辻は東大教授でしたが、教授会で「我が国の聖戦を主張して、米英畜(生)などに負けてたまるか」と声高らかに聖戦を吹聴したそうです。すると、信濃町教会に属していた斎藤勇教授が、「戦争に聖戦などなし、彼我に5分5分の言分がある。特に一方的にしかも人間の尊厳を汚すような米英畜(生)などという悪罵は慎しむべきである」と反対したのです。勇敢だったと思います。すると和辻教授は更に声を張り上げて、斎藤教授を「非国民だ」と極めつけ、「教授会の席で罵倒」したのです。時代が時代です、斎藤教授は「堅く黙して剛毅なる沈黙を以て対応された」ということです。(堀豊彦「斎藤勇先生追慕」)。

  どんな人間も、真理に根ざしていないと時代が変われば自己保身から豹変します。私たちは浮草のように生きる弱い個人だからです。

  私は、ここにおられる皆さん全てが、霊的な一つの体に招かれている人たちだと思います。そして、皆さんが全て、「キリストの平和」に与って、一つの体である意識を持って、その共同体の意識を深めて頂きたいと思います。

  ボンヘッファーは、「一致は真理である。しかしその一致は、ただ真理においてのみ可能である」と語りました。(森野善右衛門)

  私たちの一致は真理における一致です。イエスは、「私は道であり、真理であり、命である」と語られました。真理であるこの方と、人格的な出会いをますます深めて、真理による一致の道、一つの体である道を進んでいきたいと思います。その道を進むなら、キリストはますます私たちに平和を下さるに違いありません。

         (完)

                                        2011年3月6日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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