平和があるように


        謙慎書道会に行って来ました。すごい数の堂々たる書にびっくり仰天。本格が輝いていました。              


                                            あなた方に平和があるように (上)
                                            コロサイ3章15節


                              (1)
  「キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい。この平和に与(あずか)らせるために、あなた方は招かれて一つの体とされたのです」とありました。

  ルカ福音書を見ますと、キリストの誕生の夜に、御使いが天の大軍と共に神を賛美し、「天に栄光、神にあれ、地には平和、み心にかなう人にあれ」と告げたと記されています。福音が力強く声高らかに私たちに告げることは、「地に平和あれ」ということです。どんな暗い時代にも、どんなに不安が募ろうとも、キリストは「平和あれ」という宣言をもって登場されたということです。

  「平和」。これは人間が生きる上で最も必要な基本的条件だと言って善いでしょう。アフリカや中近東で起こっている動乱の背後には、物質的経済的要素が緊密に絡んでいますが、国民の声が反映されず、日常的に平和が脅かされているということがあります。

  リビアベンガジの病院で働いているある女性は、反乱が起こった数日間、怪我をした人たちが次々運び込まれて病室が怪我人で溢れかえって、殆ど睡眠を取れなかったそうです。ある日、長い列を作って並んでいる怪我人を次々必死に手当てしながら、次の人がストレッチャーに乗せられて前に来たので、手当てをしようと顔を見ると27歳の弟だったそうです。頭部を弾丸が貫通していてもはや何の反応もありません。

  2歳上の彼女は、涙が一瞬にあふれました。だがすぐ、後から後から重傷を負った若者たちが何人も運ばれて来て手当てに掛らなければならなかったそうです。

  リビアの政局はまだ流動的で、ガダフィー政権が崩壊するか、内戦が長く続くか、世界は手出しできず固唾をのんで見守っています。

  こういう町の様子を知ると、平和は何と大事かと思います。平和はやはり落ち着いた、静かな暮らしを送るための必須条件です。戦争を経験した方々が何人もここにいらっしゃいますが、皆さんもそうお思いでしょう。

  しかし社会的な平和と共に、心の平和も極めて大事です。心の平和がないと、私たちは落ち着きません。物質的なものが全て備わっていても、心の平和が破れると、顔は曇り、イライラし、不安にもなり、積極的に何かを積み上げて行こうという気も起りません。

  内面の平和も社会的な平和も、人間に欠かすことができないものだと言っていいでしょう。

                              (2)
  今日の聖書は、「キリストの平和が、あなた方の心を支配するようにしなさい」と語ります。

  支配とは辞書では、「その者の在り方を左右する程の強い影響力を持つこと」とあります。キリストが下さる平和、またキリストご自身が与っておられた平和で、あなた方の心が左右され、支配され、強く影響されるようにと勧めるのです。

  私たちは余り物や残り物を人に上げる場合もあるでしょう。でも、キリストはご自身がそれによって実際に生きておられるものを下さるのです。平和はキリストの命そのものです。キリストご自身が備え、それを生きておられるものを下さるのです。

  もう少し別の視点からキリストの平和を考えましょう。

  先ほど申しましたように、キリストの誕生に際して、天の万軍によって「地に平和あれ」と告げられたということから、キリストの誕生自身が既に地上への平和のメッセージであったし、そもそもキリストの元には永遠の昔から平和があったことが窺わせられます。羊飼いたちが聞いたクリスマスの夜の平和がメルヘンのように美しいのは、それが永遠性を帯びて輝いていたからです。

  だが誕生だけではありません。キリストは十字架に掛る前夜、一人の弟子に裏切られる夜も、その心は永遠性を帯びた美しい平和で満たされていました。ですから、「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と弟子たちに約束することがおできになったのです。

  ここから分かるのは、キリストの平和は、永遠性を帯びて美しいだけではありません。その平和は世を越えた超越的な所から来る終末的平和であって、終末まで私たちと共にあり、どのような逆境に立たされている者も力づけ、勇気を与えるものだということです。しかもイエスご自身が、そういう苦難のただ中で平和を持っておられたのです。

  ですから、キリストの平和が私たちを支配する時には、悩みが襲う試練の夜も、涙の流れる苦難の道でも、キリストの平和が波立つ私たちの心を鎮めて下さり、恐怖を取り除いて下さるのです。

  しかしまた、復活の主は、弟子たちが集まっている家に入って来て真ん中に立ち、脇腹をお見せになり、ご自分を見捨てて逃げた彼らを少しも責めずに、「あなた方に平和があるように」と言われました。この時に約束された平和は、十字架に付けられたが死に打ち勝ち、ご自分の命で贖い取られた平和でした。

  ですから、この「キリストの平和」は、死を潜り抜け、死の力に勝利することから来た平和であり、千金の値があります。

  この「キリストの平和が、あなた方の心を支配するようにしなさい」と言われているのです。努力して勝ち取るようにとか、それを作り出せというのではありません。その必要は全くありません。すでにキリストによって勝ち取られているからです。それを気前良く与えられるのです。

          (つづく)

                                        2011年3月6日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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