私たちを結ぶ帯


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                                              私たちを結ぶ帯 (上)
                                              コロサイ3章12-14節


                              (4)
  次に「憐れみの心、慈愛…」などに進みますが、最初に触れましたように、これはキリストに憐れみを受け、慈愛をもって愛されたことへの感謝の現れです。喜びの表われ以外ではない。

  「愛は惜しみなく奪う」と有島武郎は書きました。彼の愛は本能の働きとしての愛です。彼はキリストの愛を求めていましたが、途中から本能の愛に逸れていきます。そしてやがて挫折し、自殺していく。「愛は惜しみなく奪う」の愛は、神から来る愛ではありません。ですから自己愛になり、当然、惜しみなく奪う愛になります。

  インドやタイで、他人の卵子精子代理出産をする日本人が増えていると言います。子どもが授からない寂しさがあると思いますから、軽いことではありません。しかし子供が授からないことも大いなる恵みに変わることがあります。イエスは子供を持ちませんでした。結婚もしていません。

  代理出産は日本で禁じられています。それを犯して、外国に行って依頼した後、当の日本人夫婦が離婚したため、生まれた子どもの引き取り手がないという恐ろしい問題が起こっています。野球選手やプロゴルファーやサッカーの有名選手の精子を欲しいという女性とか。まあ、種馬に群がる雌馬の有様で、今日色んな事がありますが、それらは有島が言う「愛は惜しみなく奪う」という自己愛の愛、吸引する本能の愛です。

  しかし神の愛は言わば火ですから、私たちを焼き、清めもしますし、暖めもします。清めるのは本能の自己愛を清めるからです。しかも神の愛は暖かいですから、当たれば暖まらない筈はありません。そして暖められれば、暖かさを他に分けたくなります。

  お風呂のお湯が一杯になって溢れ出すように、神の救いの喜びが私たちの心に満ちれば、外に流れ出します。そこに表れて来るのが謙遜です。傲慢ではありません。柔和です。ケンカ腰ではありません。寛容です。自分勝手ではありません。神の忍耐に出会って忍耐と赦しが生まれます。

  勿論、実際はそんなにうまく行かないかも知れませんが、行かないからこそ、パウロは、「主があなた方を赦して下さったように、あなた方も同じようにしなさい」と勧めるのでしょう。

  エゼキエル36章に、神の聖なる名を汚し、神から、「お前たちを嫌悪する」とまで言われたイスラエルの民が出てきます。だが彼らに、「私はお前たちに新しい心、新しい霊を置く。石の心を取り除き、肉の心を与える」と神から語られるところがあります。いったん「嫌悪する」と言われたのに、新しい霊を授け、新しくするというのです。

  なぜ神がそんな汚れた民を愛するのか。それは、「わが聖なる名のために行う」「わが名を聖なるものとする」ためだと言われます。嫌悪する者を根拠にするのではありません。「わが聖なる名のために行う。」それが根拠であり理由です。

  赦しは、相手の罪を見ないことではありません。罪を忘れることでもない。罪を知りつつ、相手に免じてではなく、自分の主体性において赦すことです。相手を変えようとして赦すのでなく、単純にキリストに従うためです。その時、キリストにあって自由です。相手からも自由です。

  こちらから挨拶したり言葉をかける。それはこちらの負けでも妥協でもありません。神の光を反射しているのです。キリストが実在され、神に心を向けているのでしているのです。

  和解しようとする気持は、すでに春の訪れを告げています。神を賛美しようとする気持は春をもたらします。

  「赦し」というギリシャ語には、解放すること、放免することを指す言葉と、「優しくする」という言葉があります。

  神に赦される時、言葉の真の意味で優しくなるのです。心の中心が優しくなる。根本の所から休みを授けられ、安らぎを与えられるからです。罪に捕えられた人間は、自分の力では解放されることはできません。

  イエスは、「あなたの罪は赦された」と語って、罪から解放していかれました。これは、医者による癒しとも、人による解放とも違います。キリストによって義とされることです。神に義とされる時、心は優しくされ、くつろぎを与えられ、癒されもし、古い人から新しい人にされて行くのです。

  「主があなた方を赦して下さったように、あなた方も同じようにしなさい。」なぜこう勧められるかと言うと、赦しはまったく神からの恵みであるからです。神の無条件的な赦しが無駄にならないように、あなた方も赦しなさいと勧められているのです。

                              (5)
  最後に、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は全てを完成させるきずなです」と語られています。前の訳は、「愛はすべてを完全に結ぶ帯である」となっていました。

  愛は説き、語るためでなく、身に着けるためにあるのは深い洞察です。愛はそれを身に着けて生きようとしなければ、意味は半減します。

  赦しも憐れみも、謙遜も柔和も寛容も、それをやればいいというものでなく、愛に基づき、愛によってそれをする時、意味を持ちます。愛が帯として働き、これら全てを結び付ける時、人間として盛装した姿が立ち現れると言っていいでしょう。

  「愛には偽りがあってはなりません」とは先週、ローマ書で学んだ言葉です。このような愛は、これらすべてを完全に結ぶ帯。結び付け、一つ一つを命あるものに、有効にし、意味あるものにする帯だと言っていいでしょう。

        (完)

                                         2011年2月20日



                                      板橋大山教会   上垣 勝


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