春、新しい人を身に着けて


                            雨のウオーキング
                                ・




                                              私たちを結ぶ帯 (上)
                                              コロサイ3章12-14節


                              (1)
  さて、今日の個所には福音が単純にサラッと語られています。「あなた方は神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなた方を赦して下さったように、あなた方も同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」

  サラッと書かれていますが、何と内容の詰まった充実した生き方であろうかと思います。先ず、「選ばれ、聖なる者とされ、愛されて」と3つの恵みが書かれ、次に、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容…」など7つの徳。そして、これらを結び付ける最高の徳とも言える愛です。

                              (2)
  「あなた方は神に選ばれ」とあります。

  神の選びは、むろんドラフト会議で日本ハムに選ばれた斎藤佑樹とか、野球やサッカー選手の選びとは違います。それは実力ですが、神の選びは一方的な神の自由な選びです。

  私たちに誇るべきものがあったからでも、取り柄があったからでもなく、ただ一方的に選んで下さった。ですから1章で、「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さいました」とあり、「以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によって、…ご自身の前に聖なる者、傷のない者、咎めるところのない者として下さいました」と書かれていました。


  ここでも「聖なる者」とされとありますが、今日の所にも、「聖なる者とされ」とあります。

  コロサイのキリスト者たちが聖なる者と呼ばれていますが、皆さんもそうです。「聖なる者」というのは、神のためにとっておかれた者、神とつながり、神との交わりに入れられた者のことです。私たち自身が聖人や聖女や、罪も咎も汚れもない完全な清い者になっている訳ではありません。そうではなく、罪も咎も汚れも持っているのに、キリストにより、「その血によって、み前に聖なる者、傷のない者、咎める所のない者と」見なして下さったということです。そう取り扱って下さったということです。ここに神への感謝が表明されています。

  捨て猫が飼い猫として取り扱ってやっても、お礼など言いません。感謝などされません。当然のような顔をしています。「聖なる者とされ」た人間は、神に対してどうでしょうか。猫と同じであっていいでしょうか。

  釘は磁石に触れると磁気を帯びて、他の釘をくっつけるようになります。釘は釘のままで、磁石になるわけではないが少しの磁力を帯びます。

  磁石につながる限りいつまでも磁力を持ちます。これは自分の磁力というより、元の磁石の力です。高慢にも、自分が磁力を生みだしたと考えるようになると、人間であれば聖でなくなり、磁力を失ってしまうと言っていいでしょう。


  そして次に単純明快に、「愛されているのですから」と言います。選ばれ、聖なる者とされたのは、神に愛されているからです。

  コリント前書に、「愛は忍耐強い、愛は情け深い、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える」とありますが、これは人間の愛についても言っていますが、それ以上にアガペー、キリストの愛、神の愛とはどのようなものかを述べたものです。

  私たちはキリストから忍耐をもって愛され、情け深く扱われ、全てを忍ばれ、また耐えられて、今日まで来たのではないでしょうか。今日まで、自分の力でやって来ました、と言えるクリスチャンはいないだろうと思います。

                              (3)
  この3つの恵みと、次の7つの徳、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦し」との間には、聖書に書かれていませんが、実際には神への感謝があり、神への賛美があります。

  神への感謝と賛美が、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容などとなって表れるのです。日本ではまだあまり言われていませんが、今後食品の暴騰が予想されます。温暖化や異常気象がたたり、人為的な原因もあります。泉や湖が涸れてあちこちで広大な農地が干上がっています。

  神の憐れみや慈愛や愛、この泉の源泉があって、そこから感謝の水が流れ出て田畑を潤し、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容などの実が実ります。神への感謝や賛美がなければ、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容など、また愛も、日々干からびて行くでしょう。

  神への感謝が干からびる時、これらの徳が自分の誇るべき業になって行く。ちょっとずつなって行くので本人は分かりません。信仰の感謝から生じないものは、誇りになり、自慢になり、うぬぼれになり、頽廃して行くでしょう。キリストの香りでなく、その人の香りが匂って、悪臭になっていても案外気づかない。

  この3章9節に、「古い人を…脱ぎ捨て、…新しい人を身に着け、日々新たにされて」とありました。何才になっても必要なのは、日々新たにされていく生き方です。

  いつか確かAさんが、「お茶には卒業はありませんよ」と笑っておっしゃいました。そうですよね、Aさん。信仰にも卒業はありません。90才だからもう卒業だというのではありません。「理想や目標を失った時、老いは始まる」と言われます。ある教会役員をした方ですが、90才を過ぎても日々新たにされ、新しい人を身に着けて生きておられました。ですから春のように新鮮でした。普通は何となくだれて来るでしょうが、輝きがありました。知性の輝きも持つ人でしたが、信仰の輝きが更に輝いていました。

  私たちが聖書に聞き、共に聖書に学び、礼拝で共にみ言葉に聞く。この礼拝生活がないと、また古いものに頽落して落ちて行きがちです。なぜなら、信仰は人の業でなく、神の業であるからでしょう。不思議ですが、キリストの体なる教会に身を置いていると、やはり新しくされて行きます。それは活ける信仰の源泉であるキリストが交わって、実際に働いて下さるからでしょう。

          (つづく)

                                         2011年2月20日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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