イエスを咎めた唯一の女性


                               教文館
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                                                 二人の姉妹 (上)
                                                 ルカ10章38-42節

                                 (1)
  ルカ10章全体は、大まかに言うと、神の恵みの言葉に聞くということ、福音にしっかり耳を傾けることの大切さが記されています。何をしたか、何が出来たかという表に現れる現象でなく、それも大事ですが、先ず神の言葉によって深く養われることの重要さです。
 
  ここに、マリアとマルタの二人姉妹が登場します。どちらが長女かははっきりしませんが、マルタがイエスの一行を家に招き、主役として働いていますから、彼女が長女で、この家の主(あるじ)として采配(さいはい)を振るっていたと言っていいでしょう。
 
  彼女は、旅の途中、村に立ち寄ったイエスと弟子たちを迎えることが出来たので、顔を輝かし大喜びでもてなし始めたのです。40節に、彼女は、「色々のもてなしのためにせわしく立ち働いていた」とある通りです。
 
  「千載一遇(せんざいいちぐう)」のチャンスとはこの事でしょう。こんな好機に遭遇したとは、彼女は何とラッキーなことでしょう。皆さんも、大切な大切なお客さんが来られると分かれば、何日も前から掃除をしたり、部屋の片づけをしたり、何を出そうかと料理を考えたり、準備をしたりなさるでしょう。
 
  最近、私たちのアパートに5才になったAちゃんが一人で泊まりに来ます。するとバっちゃんが、前日から煮たき物を準備したり、翌朝の分まで何をするかと用意しているようです。
 
  こんな御来客でもそうですから、ましてやイエス様です。咄嗟(とっさ)に決まって、マルタは喜びをもって、できる限り手厚くもてなそうとしたのも無理からぬことです。でも、1人や2人ならいざ知らず、10人以上の男たちを家に入れます。実に大変だったでしょう。しかし人間というのは面白いもので、用意し始めると彼女の頭に次から次へと良いアイディアが湧いて、あれもこれも色々のもてなしを始めた。向こうは乾燥地帯です。もし今日、皆さんだったら、一行を送り出す時に13人にペットボトルまで用意したかも知れません。
 
  ただ余りにも多くの事に心を使って、今や押し潰されそうになった。まさに忙しさのあまり、心が亡びそうになった。それで余裕がなくなり、気がせいて妹のマリアを責めるようになって行った。「私一人を忙しくさせて、なぜあの子は気づかないのかしら。」頭の中がプリプリして、妹に怒り始めた。
 
  ガチャンガチャンとお茶碗の音を立てたり、音を立てて戸を閉めたりしたかどうか知りません。妹は、イエスの足元で話にじっと聞き入っているだけです。「お手伝いしながらでも聴けるでしょ」という思いにもなったでしょう。
 
  そして、遂に爆発しました。だが、マリアに対してでなく、イエスにです。「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」怖い顔で、強く言った。マリアを飛び越えて、「イエスこそ、察して下さっていい筈でしょ」と、イエスに当たった。
 
  もしかすると彼女は、イエス咎めた唯一の女性かも知れません。男ではペトロ、女ではマルタです。イエスも責めようとすれば責めることが出来るということでしょう。
 
  この事件のすぐ前をご覧下さい。善きサマリア人の譬えが記されています。そこを見れば、マルタの言葉にも一理があります。というのは、イエスは、困っている人を助けるように言われている。強盗に襲われて瀕死の重傷を負った人への愛の奉仕を説いておられます。
 
  ですから、困っている人を助けなさいと普段は説いているのに、なぜ私が困っているのにマリアに言って下さらないのか。おかしな理屈ですが、理屈としては通ります。口では良いことを言っておられるが、実際には言って下さらないではありませんか。そんな含みがここにあります。人間は何て身勝手で罪深いのでしょう。
 
  たとえイエスでも責めようとすれば責めることが出来る。しかし、実は責める人間の方が問題を持っている場合が多くあります。問題な人間だから、一層責めて来る。
 
  ゲーテでしたか、「はしためはどんな偉大な人にも欠点を見つける」というような言葉を書いていました。詩編に、「悪評を立てられても恐れない。その心は固く主に信頼している」とありますが、そうした揺るがない信頼が要ります。むろんそれが一部正当な場合もありますから揺さぶられるのですが。
 
  マルタは腹立ちまぎれにイエスに注意したのです。感情の爆発というのは、往々にして筋違いの所で爆発させたりしますが、その典型がこの出来事です。
 
  それにしても、なぜ姉は妹に直接言わなかったのか。そこに姉と妹の微妙な関係、微妙な葛藤を窺(うかが)わせられます。家族というのは、うまくいっているようでも、骨と骨とをこすり合わせるような所があります。軟骨がすり減って、直接こすり合わせますから、きついです。
 
  「親しき間にも礼儀あり」とは、その間(ま)の取り方へのアドバイスでしょう。むろん隙間がありすぎると、「水臭い」と言われたりして、なかなか兄弟関係はややこしいので苦労します。
 
  「親しき間にも礼儀あり」は夫婦の間でもそうでしょう。長年連れ添っていると、「あなたは、いつもこうなんだから」と、「いつも」を強調して言ったりします。すると、「いつも、じゃないだろ」と言い返しますね。すると一層力を込めて「いつもよ」と言う。それで、いつもいつも、「いつも」が問題になって、いっつもケンカが絶えない夫婦になっちゃうこともある。また、そこから別件に飛び火して、大火になることもある。
         (つづく)
                                             2011年2月27日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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