復讐か平和か


                        早くこのような春が来ますように
                               ・



                                          あなたは悪にどう対しますか (中)
                                          ローマ12章14-21節


                              (3)
  他の人への善や親切は、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とあるように、喜びや悲しみを実際に分かち合うことによって具体化されます。

  具体化されなければ何にもなりません。体を動かし、手足を動かして親切である時、そして損をしてもそれをする時、それは受肉していきます。仕える人、愛する人は損をする人です。人への要求でなく、低く、仕える人になることです。

  9節に、「愛には偽りがあってはなりません」とあります。神の憐れみによって勧められる12章以下のキリスト者の生活とは、つまるところ、偽りのない愛の生活です。

  「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という言葉から、コリント前書でパウロが、「私は弱い人に対しては弱いものになりました。全ての人に対しては全てのものになりました。福音のためなら私はどんなことでもする」と書いたことを、思い起こす人があるでしょう。彼は語ったことを生き、生きたことを語った。だから人々は耳をそばだてたのです。

                              (4)
  次に、17節以下に移りますと、彼は、「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行なうように心がけなさい」と語ります。

  「心がけなさい」とは、プロネオーというギリシャ語が使われています。これは、日頃の心構え、心の備えをして生きることです。別の聖書は、善を行なうことを目指しなさいと訳したり、そう決心しなさい、そういう高貴な生き方をしなさいと訳しているのもあります。いずれにせよ、そういう生活態度で生きなさいと勧めるのです。ここに、まさにパウロ自身の生き方が出ている訳です。

  昨日でしたか、新聞に姜尚中(カン・サンジュン)さんの話が載っていました。前はICUで教えておられましたが、今は東大の先生です。在日韓国人ですが日本の文化に深い造詣をもっておられます。人の価値を決めるのは、どれだけ新しいクリエイティブなことをしたとか、素晴らしい体験をしたかということでなく、「周囲にどんな態度を取ることができるか。人の価値は態度で決まる」と語っていました。

  私たちの周りを見ると、自分の姿は分かりにくいのに、人がどういう態度を取るかよく見えます。人の価値は態度で決まる。何気ない言葉ですが、実に深い意味をもっています。

  「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行なうように心がけなさい。」これは、まさに周囲にそういう生活態度で生き、そういう心がけ、心構え、心の備えで生きることへの勧めです。パウロの教えは、2千年前ですがカビ臭い古い思想ではありません。

  いや、現代人こそ最も新しい考えを忘れて生きている。不易流行。真に新しいものは常に新しいのです。その大切なものを忘れて生きちゃあならないのです。


  18節は、「できれば、せめてあなた方は、全ての人と平和に暮らしなさい」と語ります。

  「できれば、せめて」という言い方に、世の現実の姿を洞察したパウロの冷めたリアリズム、現実への目があるでしょう。

  「できれば」と言うのは、ギリギリの所まで平和な在り方をしようではないかという勧めです。しかし、「できれば」という所に、それが出来ずに挫折する人への配慮があります。しかしまた、何らかの理屈をつけては平和な在り方を手控える人、善き意志を引っ込める人には、「できれば、せめて」とその心に迫ります。

  そして平和に暮らす道として、19節以下を私たちの前に差し出すのです。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が復讐する』と主は言われる」と書いてあります。」ちょっと抵抗がありますが、これは申命記32章の引用です。旧約聖書です。

  ただ、神に任せる時、私たちの怒りはやや静まるのではないでしょうか。穏やかになる。それは、神が必ず歴史を支配される方であるとの確信であり、神は正義と公正を貫いて、地上に実現して下さるという信頼を伴うからです。ここに、ローマ書11章までの信仰の土台があります。

  その基礎があって、神に任せるという前進が可能になります。前進と言っても僅かな一歩かもしれません。しかしそれでも一歩です。春の陽差しが明るくなり、その光が雪におおわれた山に注がれると、雪解けが始まります。ポタッ、ポタッと融けて行きます。そのポタッがあって川の水が増え、春が一歩近づきます。神の歴史支配、神の壮大な救済史への確信があってこそ、僅かな一歩、任せる一歩が可能になります。神がおられず、その歴史支配がなければ不可能です。

  私は今、個人的なことだけを述べているのではありません。エジプトは内乱を起さなかった。それが勝利へ導いたと私は思います。このことは幾ら評価しても評価し過ぎることはないと、私は思いました。もし暴動になっていれば、たちまち権力者はそれを口実に弾圧したでしょう。

  「できれば、せめて…平和に」、そして「自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。」暴力的復讐でなく、デモに終始した。キリスト教国でなく、イスラム教国であっても、仏教国であっても、どこであってもパウロのこの言葉は真理です。民主主義の成熟度は、復讐をどう爆発させるのか、どう爆発させないのかに現れます。エジプトは粘り強い民衆の戦いの力で、国際的評価を高めたと思います。

  今日の個所から、戦争の準備でなく平和外交の大事さも思います。非核3原則とか武器輸出3原則とか、武器産業や政治家が何とかそれを崩そうとしていますが、「できれば、せめて、平和に」、そういうことが大事です。

        (つづく)


                                          2011年2月13日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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