芸術になったカテキズム


                      何百年も前から泉が湧いているようでした
                               ・


                                          あなたは悪にどう対しますか (上)
                                          ローマ12章14-21節


                              (1)
  今お読みいただいた14節に、「あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」とありました。

  イエス様は山上の説教で、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と愛敵を説かれました。ルカ福音書では少し違って、「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈りなさい」となっています。

  パウロがローマ書を書きましたが、今日の個所には、最もよく知られたイエスの愛敵の教えが反映しています。パウロは、イエスの教えを普段から考えていたのでしょう。初代教会にはこの教えが広く流布してもいたでしょう。彼はそれを噛みしめ、自分の言葉で、自分が理解したことを、ローマの人たちに向けて説いたと言っていいだろうと思います。

  普段から噛みしめて生活態度になっていたから、ここにあるような深い真実を語ることが出来たのです。

  パウロは自分自身を含め、人の心をよく知っているのです。「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」とあるのは、祝福より、呪いや愚痴が私たちの心に近くあることが実に多いことを知って、こう勧めるのでしょう。「右ではありませんよ。左に曲がるのですよ。祝福ですよ。呪いではありませんよ」と、出来るだけ具体的に、懇ろに勧めています。

  そして15節以降で、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし…。誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行なうように心がけなさい。出来れば、せめてあなた方は、すべての人と平和に暮しなさい」と語りました。

  実に晴れやかな生き方です。逞しさを感じますし、健康な強い精神を感じます。ここには、善に対する確信があります。

                              (2)
  なぜ、こういうあり方が出てくるのでしょう。それを知るには、ローマ書全体の構造を知る必要があります。それは同時に、キリスト教信仰の構造と言ってもいいものです。

  彼がこう語るのは、ローマ書1章から11章までで語られて来た神の真実、神の選び、神の約束が土台としてあるからです。そして誰もキリストの愛から私たちを引き離すことはできないと語ります。そういう確かな救い、キリストの愛があるから、こういうあり方が出てくるのです。

  ですからこの12章1節をご覧いただくと、これまで11章までで語って来たすべてを受けて、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます」と書いて、信仰者の在り方を12章以下で引き続き語って行くのです。

  「こういうわけで」という、11章に亘る「神の憐れみ」という分厚い土台がなければ家は上に建ちません。土台が堅固で深いゆえに、その上に建物がしっかり立ちます。信仰の足場も同じです。むろん足場があっても、その上に家を築かなければ足場のある意味がありません。ですから、「こういうわけで、…神の憐れみによってあなた方に勧めます」と彼は説くのです。

  ですから、キリスト教は信仰は信仰、生活は生活と分けられる者ではありません。信仰と生活が分かち難く繋(つな)がっています。

  毎年12月には、ヘンデルメサイアが各地で演奏されます。素晴らしい作品です。初めは分かりませんでしたが、10回、15回と聞くうちに、私のような者でもメサイアの良さが分かるようになりました。元々、イエスの誕生の預言と生涯と十字架、復活と永遠の命を聖書の言葉そのままに歌うのですが、言葉だけだとあれは味気ないカテキズムみたいなものです。ところがメサイアのメロディがつけられ、素晴らしいものに一変しました。芸術になったカテキズムです。ある人が言っていますが、本当だとあのような音楽は床に落とすとガチャンと2つに分かれてしまうのですが、ヘンデルメサイアはギリギリのところで言葉とメロディが緊密に一体になっているので落としても分離しない。

  信仰と生活も一体であって分離しないのです。信仰は信仰、生活は生活になっているとすれば、その信仰はどこかで違うのです。「木はその実で知られる」、「実はその木で知られる」のです。自分はキリストの慰めだけでいい。生き方はまた別にしますというものではありません。

  パウロは1章で、「私は福音を恥としない」と語りました。これがローマ書16章全体にいき亘っています。そして、キリストの福音は、「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」であると、断固として語ったのです。彼は、確信をもって神の力を信じたのです。

  その後、彼は、人間の罪の姿、自分の罪を棚上げして罪ある者を裁く罪。人の罪を鋭く暴露して裁くが、自分を棚上げにする罪の姿。救いようのない人の姿。そのような人間に徹底的に下る神の裁き、逃れる余地ない神の裁きを書きました。

  だが、そういう全ての人間を救うために神はキリストを遣わし、十字架に掛けられた。その深い意味は何かを説きました。一言でいえば、イエスは、私たちの罪を贖う献げ物とされたことです。私たちの上に当然徹底的に下る神の裁きを、キリストが代わって徹底的に身に受け、裁かれて下さった。身代わりに、神に砕かれ、裁かれて下さったという恵みです。その結果、主の恵みにより、憐れみにより、信じる者を無償で義とされたということです。

  この「神の憐れみ」が、やがて12章1節の、「神の憐れみによってあなた方に勧めます」に繋がっていきます。

  パウロはまた、膨大な旧約聖書の歴史に遡(さかのぼ)って、なぜ信仰によって義とされるかに筆をすすめ、自力では決して救われ難い人間の姿がたどられ、罪に染まった行ないの法則でなく、信仰の法則によってのみ救われることを説きます。

  しかもこの救いにより、いかなる被造物も、キリストにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないことが大胆に証しされます。先ほど触れたとおりです。

  そして歴史問題に移ります。それはイスラエルの選びと、彼らの棄却です。なぜ彼らは捨てられ、代わりに私たちが選ばれたのか。なぜ憐れみの器として、私たちが招かれたのかが記され、やがて万民に対する神の救いの意志。異邦人を救い、最後は一度捨てられた全イスラエルの救いの達成という、神の壮大な救済の歴史が進んで行くことが語られて行き、最後に、救いの「声は、全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」と語った後、11章の終りで、「すべてのものは神から出て、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン」と書いて、11章が閉じられるのです。

  一言でいえば、ここに、あなた方が聞いた神の喜ばしい福音のゆえに、あなた方は天の父の子である。だから、「あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。…誰に対しても、悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行なうように心がけなさい。出来れば、せめてあなた方は、すべての人と平和に暮らしなさい」と、勧められると言っていいでしょう。

          (つづく)

                                          2011年2月13日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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