諸霊とキリスト教


                       立春が過ぎ春の香が漂いはじめました
                               ・


                                              新しい人を身に着けて (上)
                                              コロサイ2章20節―3章11節


                              (1)
  今日の個所に「世を支配する諸霊」という言葉が出てきました。これは既に2章8節でも出ていたものです。元の言葉は、「世のストイケア」となっています。ストイケアとは諸霊、霊たちということです。

  今から2500年程前のソクラテスプラトンアリストテレスなどギリシャ古代の世界では、広く宇宙世界を支配する基本的な霊、あるいは霊的な元素があると考えられていました。霊と言っても今日一般的に言われる霊とは異なりますし、元素と言っても科学がいう元素とは違います。その基本的な元素は、地と水と空気と火です。それにエーテルを加えて5大元素、5つの霊と言われました。その他にも諸々の霊が信じられていたようです。

  これは幼稚な変な考えと思われるかも知れませんが、今も仏教で地、水、火、風、空(くう)を5大と言っています。空とは、般若心経の「色即是空」の空(くう)のことです。一時流行ったいわゆる風水説もこの世界のものです。

  そしてこれらの霊たち、あるいは元素たちのバランスや秩序や安定が、自然界に幸福や災いや飢饉をもたらし、人間の体も暮らしもこれらに左右されていると考えたのです。

  ですから、「世のストイケア」、宇宙を支配する諸霊を悟り、洞察することによって幸福が訪れ、災いを遠のけ、繁栄が約束されると教えました。それで、世のストイケア、諸霊を礼拝することを大事にしました。そこからまた、宇宙的なストイケアを一層深く神秘体験することや幻視体験することも強調されたようです。神秘体験、幻視体験というのは悟りを開く最も深遠な、一般人は近寄り難い奥義、秘儀だとされました。

  日本でいえば火を焚き、護摩(ごま)をくべ、呪文を唱える密教的な世界です。これはオーム真理教的なものにもつながり発展しかねない世界です。

  神秘体験や幻視体験のためにどういうことが必要かというと、断食です。修行です。一心不乱な難行苦行。また謙遜です。謙遜の行です。謙遜になることも行です。眉唾ものですが、オームでは浮遊体験というのもあったようです。天上界の諸霊と一体になることによって、体が浮かぶということでしょうか。全くまやかしです。

  禁止条項もあります。その一部が21節の「手をつけるな、味わうな、触れるな」などです。これらも日本では馴染みがないと思う人があるかもしれません。しかし日本でも昔、何かの期間は、「生臭いものを味わうな」とか、「女性に触れるな」という戒律がありました。特に修行中の坊さんにはあったでしょう。

  このような悟りの開き方は、キリスト教的に言うと、すべて業によって義とされようとすること、律法によって義を得ようとすることです。ですから23節は、「これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴って」しまう、と語るのです。

  それは魂の浄化と悟りと天上界に上ること、宇宙的な霊の世界に達することを求めているように見えるが、人の欲望である「肉欲を満足させるだけ」であると語るのです。

  ここで聖書が語りたいことは、ある人の言葉を借りると「天上界への関心という衣を着た人間の宗教的な欲望」の問題です。しばしばそのような欲望が、宗教のマスクをかぶって人を動かし、支配しようとするからです。そこにどす黒い罪がうごめいています。

  当時のキリスト者たちは、宇宙的な諸霊ストイケアを悟ったという人たちから、君たちは十字架で死んだキリストを主とするというが、それは敗者の宗教だと言って見下げられたようです。イエスは十字架で殺されたから敗者だというのです。また、戒律をもって生活をビシッと厳格に決めて行くものでなく、キリストの赦しとか、イエスの愛というのは柔弱である、弱々しい、女々しいということでもあったでしょう。

                              (2)
  そういう批判に対して、2章10節で、「キリストはすべての支配や権威の頭です」とあるように、宇宙はストイケアが支配したり、頭であったりするのでなく、キリストこそ万物の真の頭であると告白したのです。また20節にあるように、私たちは「世を支配する諸霊とは何の関係もない」語りました。

  そして今度は3章1節以下で、「あなた方は、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。…上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」とあるように、万物の頭であるキリストに集中するようにと勧めたのです。

  上にあるものとは、神であり復活のキリストです。キリストのご支配です。ですから3節にあるように、健全で健康な生活は、「キリストと共に神の内に隠されている」と語りました。地上を生きられたキリストの中に、現実社会を生きる人間の、またキリスト者の善き生き方があるとしたのです。


  ところで、3節は、「あなた方は死んだのであって」と述べています。また20節も、「あなた方は、キリストと共に死んで…」と述べて、「なぜ、この世に属しているかのように生き」ているのかと語っています。

  すなわち神に敵対するこの世的な関心や生き方と、決別することがここで語られています。この世に対して死んだということは、決別したということです。ただこの決別は、ここが大事ですが、今日の後半、5節以下にあるように、この世における日常生活の軽視や否定ではありません。そうではなく、日常生活において自分の体を色々な悪徳の働く道具とするなということ、以前のような肉的生活に終止符を打ちなさいということ、それだけでなく、「古い人」を脱ぎ棄て、「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて」、積極的にこの世に生きるということです。

  ですから、ここで語られる世との決別は、世からの逃避や隠遁ではありません。今述べたように、「古い人」との決別であって、キリストの光を浴びて新しい人を身に着けて、世にあって生きることです。

  5節以下ではこう言っています。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、及び貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝に他ならない。…あなたがたも、以前このようなことの中にいた時には、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いに嘘をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。…キリストがすべてであり、全てのものの内におられるのです。」

  ここに、キリストへの集中と、先ほど言った現実社会での生き方が示されています。今日は扱いませんが、次の12節以下では、キリストへの集中から来る積極的な生き方が語られていきます。

  「日々新たにされて」とあるのは、日々キリストからそれたり、脱落するのが私たちであるからです。だが、それたり脱落しても、また新たにキリストに戻って進めばいいのです。

  今すぐに完全になれ、完璧であれというのではありません。そんなことは出来っこありません。むしろそういう背伸びした生活は偽りを生みます。偽善を生みます。事実そういう清められた信仰生活を主張する教会で、当の牧師が大変なことをしたり、大変なことをしても臭いものにふたをする教会が近くの教会で起こったことがありました。先ほどの所でもありましたが、謙遜も偽りの謙遜になることがある。

  キリスト者の完全という本もあります。だが私たちの完全は、完全を捕えた完全、救いに達した完全ではなく、向こう側が、完全であるキリストの方が私たちを捕えて下さった完全。こちらから言うと、キリストに捕えられて、捕えようとするプロセスの姿です。

  私たちは救いに向かって旅の途上にあります。既にキリストによって救われました。しかし、未だ天国にいるわけではありません。私たちは既に救われたが、未だ完全な世界にいない。既にと、未だの中間にあるのが私たちです。旅の途上にある。私たちは旅人です。

  しかし完璧であることが律法になり、一種の戒律になると、そこにも宗教の仮面をつけた人間の欲望の支配が現れたりするのです。しかも偽善に生きながら人を支配するという全く醜いものが現れます。

          (つづく)

                                       2011年2月6日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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