深い傷を受けた時


                       ガチョウたちも春を待っていました
                               ・


                                              私を究めて下さる方(2)ー(下)
                                              詩篇139篇13-24節


                              (3)
  さて19節以下で、突然、「逆らう者を打ち滅ぼして下さい」とあり、「あなたを憎む者を私も憎み、…忌むべき者とし、激しい憎しみをもって彼らを憎み、…私の敵とします」と出て来ます。余り唐突で、一体何が起こったのか、これらの言葉の前で呆然とします。実に意外な言葉です。

  語っていることは明らかです。「神よ、悪をなす者を赦されるな。滅ぼしてほしい。私は彼らを憎む、激しい憎しみをもって、忌み嫌い憎悪する」というものです。悪びれることなく、積極的に神に訴えています。

  詩編にはこのような憎悪や復讐があちこちに出てきます。137篇には、「いかに幸いなことか。お前が私たちにした仕打ちをお前に仕返す者。お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」とあります。もう聞くに堪えない言葉です。

  これはどう理解すればいいのでしょう。理解するもしないもありません。これは旧約聖書の信仰の限界です。これはユダヤ教です。キリストを知りません。キリストを知らない限り、ドロドロと、血生臭い報復の価値観は終わることはありません。

  だがイエスが来られて新約聖書になると、先程のマタイ福音書5章でイエスは、「あなた方も聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と語られたとありました。イエスは、ユダヤ教の世界は、「隣人は愛し、敵は憎めと命じる」世界だと言っておられる訳です。ユダヤ教もこの世も基本は、「隣人は、仲間は愛し、敵は憎め」、敵を愛するのはおかしい、赦すなと語る世界ではないでしょうか。

  社会を見回すなら、あちこちでどんなに激しい対抗意識があり、もう争いの火の手が上がっている所もあります。今なお、やられたらやり返せの報復です。やり返しのために口を利かないことも、数を頼んで責めることもあります。「隣人は愛するが、敵は憎め。」この価値観は随所にあります。それほど人間の罪は深刻で、対立意識、敵への憎悪は人の本性に深く刻まれています。

  そうした中でイエスは、「しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じられました。何故でしょう。イエスはそれに続けて、「あなた方が、天の父の子となるためである」と言っておられます。

  私たちが心の内なる平和を見出すことができるのは、神からの赦しを宣言される時です。「私はあなたの名を呼んだ。あなたの罪は赦された。恐れるな。あなたは私の子だ」と語られる時、心に平和が訪れます。

  そして、神の赦しに自分を委ねる時に、私たちは自分からの解放、他者からの解放、いかなる者からもの解放、喜びを発見します。そして神からの赦し、喜びが私たちを責任的にするのです。被害者的な考えから解き放ち、主体的、責任的にするのです。すなわち、天の父の子にされることによって責任的な者にされるということです。

  「私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と命じられたのは、天の父の子として、あなたの喜びと自由を、迫害する者に負けずその中で輝かせなさいということです。

  別の言い方をすると、キリストは災いを受けて、裁かれねばならなかった私の災いも裁きも、ご自分に引き受けて負って下さった。今も引き受けて下さって、今の私の赦された私がある。

ですから、今度は私たちが、私たちに罪を犯した人をも、天の父の子とされた喜びをもって赦そうとするのです。

  ただ、余りに深い傷を負わされてどうして憎しみが起こらない訳があるでしょう。生身の人間なら、怒りが起こるのは当然です。ごく自然です。もし、自分は憎んだことはない、憎しみなど起こらないという人があるなら、自分をごまかしているか、現実から逃げているか、真剣に生きていない証拠でないでしょうか。

  いずれにせよ、深い傷を受けて私たちが赦せなくなることがあります。だが赦せなくても、可能なら彼らのために祈るのです。「祈れ」とイエスは命じられるのです。その所にあって、懸命にキリストを指し示そうとして、敵のために祈り、もがき苦しむのです。それとても大変難しいことですが、「迫害する者のために祈れ」と命じられることへと突き出て行くのです。

  それは、暴力的で、復讐を肯定する人が多い世の中で、傷を負いながら信じ生きることは、キリストが生きられた道だからです。そしてそのようにして祈る時、「その祈りはすでに赦しの始まりであることに気づく」(ブラザー・ロジェ)のです。その時、「もう後ろを振り返る必要はありません。キリストに従って前へと進めばいいのです。キリストは光として、道として導いて下さる」(ブラザー・ロジェ)からです。

  私たちが、「イエスは主なり」、「世界の主なり」と告白するのは飾りではありません。「天の父の子となるために」、あなたの心に本当の平和が来るために、あえて体を突き出して祈るのです。

  祈りも赦しも、悪の容認ではありません。それは正義の要求を取り下げるものではありません。むしろ赦しが起こる所で、正義はさらに拡大します(ブラザー・アロイス)。どう拡大するのか。ある人が語っています。赦しは、「過去の傷の記憶が次の世代に手渡されるのを拒否することによって、平和に貢献するのです」(ヴァイツゼッカー)。本当だと思います。赦しは、過去を忘れることではありません。そうではなく、恨みを続かせる報復の連鎖を断ち切ることにあります。すなわち赦しこそ新しい世界を造り出すものです。

  赦しというと個人のことと考えますが、赦しは個人だけでなく、社会において、国家において、国際関係における新しい歩みにおいて決定的な役割を果たします。

  イエスは言葉と生き様で、死に至るまでの生き様そして復活によって、人々に赦しを語り、神の国、新しい世界の到来を宣べ伝えられたのです。

  私たちも社会も赦しを必要としています。身近な社会で、赦しが必要な場所は至る所にあります。夫婦の関係において赦しは決定的な力を持ちます。子どもに対する赦し。母親へのまた父親への赦し。兄弟への赦し。赦しは私たちの周りに新しい世界を切り拓いていくでしょう。

             (完)


                                          2011年1月23日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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