ヤクザの妻の信仰


                             待ちわびる春
                               ・


                                              私を究めて下さる方(2)ー(上)
                                              詩篇139篇13-24節


                              (1)
  先週は12節まで学びました。今日はその続きです。13節からは、体の内部、特に胎児の成長の様子が医学者のような目で透視されます。

  「あなたは、私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立てて下さった。私はあなたに感謝を捧げる。私は恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。み業がどんなに驚くべきものか…。秘められたところで私は造られ、深い地の底で織りなされた。…胎児であった私を、あなたの目は見ておられた。…」

  3千年前に書かれた、実に的確な描写の素晴らしい詩です。この信仰者が現代に生きていれば、進んで医学者になったかも知れません。人は受精後、2か月ほどで人の形になります。「母がまだ妊娠に気づかない頃に、既に大脳や手足の原型ができ、徐々に五体ができて来る」(「驚異の小宇宙。人体データブック」)のだそうです。

  1ヵ月半でほぼ1cmになります。朝顔の双葉のような小ささです。人の萌芽と言ってもいい僅かな芽ばえです。2か月で2cmになり、2か月半で3cm。頭も手足もはっきり判別できます。やがてお腹もお尻も内臓も、五体すべて、そして血管も神経もあるべき所に整えられ、やがて世に一つしかない命として生まれます。

  まさに、神が「私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立てて下さった」とある通りですし、不思議な驚くべき力によって、「驚くべきものに造り上げられ」たのです。「秘められたところ」とか、「深い地の底」というのは、母の胎内の比喩的表現です。

  この詩編の特徴は、単なる科学者と異なるところです。彼は、「胎児であった私を、あなたの目は見ておられた」と語り、「私はあなたに感謝を捧げる」と語って、神が善き意志、善き計らいをもってお造り下さったと、神に感謝していることです。天地万物の創造者と、私という一個の人間との密接な結びつきを、感謝をもって受けとめています。

  ですから17節以下で、「あなたの御計らいは、私にとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒よりも多く、その果てを極めたと思っても…」と語ります。

  「御計らい」という言葉は複数形で書かれています。神の計らいの多さ、多様さ、複雑さです。

  私たちが健康体である時は、話し、聞き、読み、書くことができます。これらが出来るために脳細胞の微妙なネットワークが巧みに成り立っているからできるのだそうです。しかし病気になると、例えば、聞き、話し、書けても、読めないということが起こります。これらはすべて細かい脳細胞のネットワークが複雑に精巧に関連しつながっているかどうかに掛っていると言われています。

  これらの機能の大本は、すべて母の胎内で組み立てられ、織りなされ、砂粒のように数多い計らいを頂いて造られたのです。しかも私の日が、まだ一日も造られない先から、既に私のことが命の書に、神の下で書かれているというのです。

                              (2)
  以上は、13節以下を肉体面から見たことです。しかし、心の面から見た解釈もできます。

  その根拠は、「あなたは私の内臓を造り」とある、「内臓」という言葉にあります。内臓とあるのは、原語で腎臓を指します。腎臓は当時、人の意志と判断、決断を司る器官と見られていました。何が正しく、何が間違っているかを判断する場所だというのです。

  すなわち、神は私たちの心の内に善悪を見分け、判断する器官を置かれたのであり、人間である限り、神が私たちの心を究められる(1節)ように、私たちも自分の心の内を究めるべきものとして私たちに腎臓を、内臓を、はらわたを置かれたと語っているのです。今日でいえば、良心を神は置かれたということでしょう。

  その関連で、「私はあなたに感謝を捧げる。私は恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。み業がどんなに驚くべきものか、私の魂はよく知っている」と歌っているのです。

  言葉を換えて言えば、神は、何が善で、何が正しく、何が真理なのかを探る力を授けることにおいて、人間の近くにおられる。何と驚くべきことだろう、ということです。

  ですから、生活において神との関係が切れて、神に感謝を捧げるという単純な本来的なことがなくなってしまうと、思い煩いだけが多くなり、迷路のような煩雑な生き方の中に迷い込み、心はちじに乱れて平安を失ってしまうのです。

  私は九州から東北までの幾つかの教会に仕えましたが、ずいぶん昔、私の教会に、Aさんという方が来ておられました。Aと日本名ですが、ご主人は在日韓国人で、彼女は韓国人です。日本語はたどたどしいですが、ソウルの有名な女子大学を卒業した優秀な女性で、たどたどしい中に深いことまで表現されました。どういう経緯で結婚したのか知りませんが、ご主人はヤクザの幹部と人々は言っていて豪邸に住んでいました。

  夫がそういう人だというと顔を顰(しか)める方があるかもしれませんが、Aさんは実に信用できる真実な方で、信仰深い人でした。よく祈り、教会を殆ど休まず、長男は韓国で、下の子は私の時に洗礼を受けました。よく聖書を読んでおられて、聖書のどこかに疑問があると質問されました。聖書の質問を受けることほど牧師にとって嬉しいことはありません。韓国の一族は皆キリスト者だということでした。

  ある時、長男の成人の祝福式をして欲しいと言われて、教会でしたのですが、その後、昔、長男を産んだ時に聞いた説教を引用した手紙を書いて来られて、「祈りなしに子どもを育てることは一種の奇跡だ。この悪に満ちた世界で、祈らず子どもが成長することを望むのは、傲慢なことだ」と記しておられました。日本人でもこんな深い真理をなかなか表現しずらいでしょう。

  ヤクザの幹部の妻になり、困難な日本での生活であるにかかわらず、彼女は明るく笑って、思い煩ってはおられませんでした。いや、「思い煩いもありますよ、沢山」と言って笑っていらっしゃる方でした。何回かお宅を訪ねて、ご主人とも話すこともありました。ヤクザの妻でもキリスト者でありうることを知って教えられました。

  「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さるのは神です」とありますが、私たちが水を注ぐということは、この方のように祈りをもって子育てするということです。子育てだけではありません。現代社会は巨大な組織をもって複雑で錯綜していますから、その中で本当に迷路のような所に入り込むと個人は押しつぶされかねませんが、私たちが行えることは僅かであることを思って、祈りをもって神に委ね、信頼して自分のなせることを果たし、後は成長させてくださるのは神であると、その先は神に預けていく。その時に迷いが吹っ切れます。

           (つづく)

                                          2011年1月23日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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