光を放った死刑囚


                         春の光の中で花開くクロッカス
                               ・



                                              私を究めて下さる方(1)-(下)
                                              詩篇139篇1-12節


                              (3)
  やがてダビデは、「私は言う」と述べて、これまで述べたことを一歩進め、「『闇の中でも主は私を見ておられる。夜も光が私を照らし出す。』闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も光を放ち、闇も、光も、変わるところがない」と、彼が悟っていった事柄を表現しました。

  「闇の中でも、主は私を見ておられる」という時、神の裁きの目を感じる人があるでしょうか。だがダビデは続けて、「夜も光が私を照らし出す」と、神の目の何と温かく、憐れみ深く、慈愛に富んでいるかを証しします。神の目は厳しくありません。私たちの何もかも飲み込んだ、赦しの目です。闇の中にひとり佇(たたず)む私たちをも、愛をもって見守って下さる平和にみちた目です。

  行き詰まり、途方にくれ、不安に閉ざされて前途に何も見えない世界が闇です。しかも、誰も自分に目を留めてくれない、甘えを許さない社会。だがその中でも、主は御目を留めて見守っておられる。

  そして12節は、「闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わることがない」と語ります。

  「あなた」とは神ですが、霊的に解釈すればキリストをも指した言葉です。いかなる闇も、イエスが経験された十字架の恐ろしい闇。イエスを襲った、あの恐ろしい罪の逆巻く真っ暗な闇に比べれば、どんな闇も闇とは言えないのです。

  むしろ私たちがキリストにある時、「夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わることがない」のです。この個所は、キリストにおいて光に変えられる闇。夜も昼のように明るく光を放つようにして下さる信仰の世界を言い表しているでしょう。

  暫く前の新聞に、インターネットのユーチューブで、自分にカメラを向けて自殺を中継して、自殺を図った24歳の青年のことが報じられていました。奇怪な社会現象です。何人かがその孤独な青年の自殺をユーチューブで見ていたし、彼も見られているのを多分知りながら、自殺を止める者が誰もいない。孤独の中で、インターネットだけが社会に開かれた窓であり、開かれているとは言え孤独を打ち破れない社会です。

  もしその青年がこの12節を読んで、その深い意味を悟ることができていたら、死を選ばなかったでしょう。「闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わることがない。」この意味が、その青年に届けられていたら必ず解決の一歩が与えられたでしょう。

  私たちのリフォームを応援してくれている、福田和子さんの本を戯曲化した「鬼灯(ほおずき)」というお芝居を見て来ました。神楽坂にある50人程の小劇場に、60数人がギッシリ詰まっていました。なぜ見に行ったかというと、リフォーム記念に、その小劇場と同じほどの小ささの大山教会でこのお芝居ができないだろうかと思ったからです。

  前にも申し上げましたし、本などをお読み頂いた方々もあるので長く申しませんが、福田さんは高校時代から大学を卒業して都立高校の国語の教師になるまでの5年間、死刑囚の島秋人と交流があり、死後出版なさったその往復書簡集が、何10年も経って脚本にされ、あちこちで公演されています。

  島秋人は死刑囚です。食べ物がなく栄養失調で亡くなった母をもち、低能児と呼ばれ、バカにされて育った島秋人が、農家の主婦を殺して死刑囚になり、昔サンシャイン60の場所にあった巣鴨拘置所に収監されて死刑を待つ内に、人との深い心の交流がとれる人物に変貌して行きます。彼が獄中で詠み始めた短歌が人の心を打ち、多くの人の心に今も生き続けています。

  お芝居を通し、私は島秋人という一個の人格が世に放った光に接しました。獄中からの光ですが、闇でなく、昼の光と変わらない光、生きることの温かい光でした。

  「闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わることがない」とあるように、キリストが経験された闇の深さ、罪の恐ろしい深さに比べれば、島秋人の経験した闇も闇と言えなかったかも知れません。だから彼は獄中で洗礼を受けるまで導かれたのでしょう。

  そして、彼はやがて死刑囚でありつつ、光を放って行きます。極刑を受けた者でも、キリストと交わり、キリストに赦され、その光に交われば光を放つのです。しかも確かな光を、です。光に交われば闇も光になるのです。

  「私を究めて下さる方」。私たちは誰しも、神によって魂のあり方を究めて頂くことが必要です。神に魂が究められ、その深みまで知られる時、私は私の心の闇から解放され、自由になることができるでしょう。神に心の闇を知っていただく時、もはや自分自身の心の闇にびくびくし、恐れる必要がなくなるからです。

  そこに生まれるのは真(まこと)の平和です。喜びです。そして人々に対する思いやりです。人々に希望を与える方は、私たちをも希望をもたらす人へと変えて行かれるのです。

         (完)

                                          2011年1月16日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


       ・ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/ 

       ・板橋大山教会への道順は、下のホームページをごらん下さい。
                   http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/