私を究めてくださる方


                            ホッとする春の花
                               ・



                                              私を究めて下さる方(1)-(上)
                                              詩篇139篇1-12節


                              (1)
  今日の1節に、「主よ、あなたは私を究め、私を知っておられる」とありました。

  神は私たち人間を究め、また近くおられることを、この詩篇ほど巧みに、微妙な所まで的確に語る個所は他にないでしょう。

  「主よ、あなたは私を究め、私を知っておられる」とは、私という人間の陰も日向も、やましい部分にも正当な部分にも、「前からも後ろからも私を囲み」とありますが、ことごとく通じておられるという意味です。神の目には私の何ものも隠れていない。私という人間存在の奥、心と魂の奥底まで究め熟知しておられる。人には隠せても、神は全てをご存じであるということです。

  神は、単に何となく眺められる方でなく、確かな目をもって、個々人を注意深くご覧になっている方です。しかも部分的にご覧になったり、一面だけをご覧になるのでなく、私という人間の全体を、ごまかさずご覧になる方であるということです。

  人はしばしば私たちを誤解します。いや、私たち自身、人を誤解します。偏見をもち、先入観で人を見ることがどんなに多いことでしょう。しかし、神は私のすべて、その総体を知っておられます。「座るのも立つのも知り…歩くのも伏すのも見分け、私の道にことごとく通じておられる」とある通りです。

  先日、広島市の秋葉市長が、次の市長選に出馬しないことを、記者会見でなくインターネットのユーチューブで流したことが話題になりました。憶測では、マスコミは本人の意図を曲げて報道する。それへの強い抗議が含まれていたと言われています。本人の意図と違って、メディア側が一方的に編集したり、ふるいにかけて報道する悔しさからでしょうか。ただ、マスコミの人はどうであれ、私たちはそうはありたくないと思います。

  そして神は偏り見ない方である。何か一点を針小膨大にふくらまして見ない方であり、公正に、正しくご覧下さるのです。究めるとは、公正に究めて下さることです。

  「座るのも立つのも知り、遠くから私の計らいを悟っておられる。歩くもの伏すのも見分け、私の道にことごとく通じておられる。」

  なぜ私はあの道を行かず、この道を来たのか。なぜこの人に頭を下げ、別の人には頭をそらすのか。私の計らい、一挙手一投足にことごとく通じておれるということでしょう。ですから、私の悪い癖、習慣的になって抜け出せずに喘(あえ)いでいる悪癖。それらにも目をつぶらず、神にことごとく究められているということでしょう。


  「私の舌がまだ一言も語らぬ先に、主よ、あなたは、全てを知っておられる」ともあります。

  心に積もる思いがあります。だが口を固く閉ざし、言葉を一言も発しない。そうして固くつぐめばつぐむほど、思いが胸に重く溜まって来ます。すると胸の内でもやもやしたものが、つい態度に出ます。だが、まだ一言も舌が語らず、思いがまだ形を取らぬ先に、神は私の思いを全て知っておられるのです。

  これほど私たちの近くにおられ、微妙な所まで、巧みに見抜いておられる方は他にないというのです。

  この詩はダビデの詩とあります。イスラエルの王になったダビデは、自分の心を探って下さる神。自分をことごとく知っておられる神。すなわち全知の神を知ってこの詩を作ったに違いありません。

                              (2)
  次にダビデは、神の遍在に目を向けています。偏在とは神があまねくあらゆる所におられることです。

  「どこへ行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、み顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにもいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、み手をもって私を導き、右のみ手をもって私をとらえて下さる。」

  ダビデは、一介の羊飼いから30歳にしてイスラエルの王になり、名君と呼ばれて後世まで讃えられた人物です。だが彼は、ウリアの妻バテシバを犯し、身ごもったのが発覚するのを恐れて、夫ウリアを最前線に送って戦死させた人間でもあります。また、長男アブサロムの謀反(むほん)によって王座を追われ、都を追われて落ち延びて行きます。部下が長男ら反乱軍を破って王座を奪還したものの、彼の人生に課した痛烈なこの悲劇は、何によっても癒されませんでした。

  「どこへ行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、み顔を避けることができよう。」罪を犯し、ひたすらそれを隠し通し、預言者ナタンに厳しく指弾されて神の前に悶え苦しむ、泣き出しそうなダビデの姿がここにあるでしょう。

  罪から逃れ、神を避けてどこに姿をくらまそうと、そこにも主がおられる。この言葉に、彼の手痛い経験が盛られています。しかし神による手痛い経験は、悔い改めに導かれる時に、恵みの経験に変わります。罪の事実は残りますが、それが人への洞察を深めます。ダビデはまさにそうでした。

  「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし」という言葉は、王として頂点に立ち、神を忘れて有頂天になっていた時に、そこにも主は自分を究める方としておられたという驚きでしょう。

  「曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし。」イスラエルの王として力を近隣諸国に示す中で、海のかなたにもおられる主を悟った言葉でしょうか。

  神に背を向けようとも神の愛が迫って来る。大波のように押し寄せて来る。天に上っても、宇宙船に乗っても、海底深く潜水しても、黄泉や地獄に身を置いても、どんな孤独な、心挫(くじ)けそうな所にも来ておられる神。愛の神のおられぬ所はないのです。

  ダビデの光と闇、成功と失敗が絡まった罪の半生が、ここに辿られています。しかし打ち砕かれる中で、神の愛を新たに見出していった、恥と破れを持った信仰者のありのままの姿です。

  どこに行っても神から逃れられず、私を究め尽くして下さる神。恵みに富み、憐れみ深い神、咎をも罪をもぬぐって下さる神です。

  新約聖書のペトロの手紙が、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなた方のことを心にかけて下さるからです」と語るのも、そのような神です。この方にお任せする時、心にホッと一息平和が授けられるのです。

          (つづく)

                                          2011年1月16日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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