新聞では見えないハイチの人たち


                     明朝はマイナス1度。春が待ち遠しいこの頃です。     
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                                              やがて来るものの影 (下)
                                              コロサイ2章16-19節


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  随分逸(そ)れましたが、今日の個所で、この影の実体は「キリストにある」と語っていることが極めて大事です。キリストは本当の人間性を具(そな)え、より人間性豊かなあり方を私たちに指し示されたからで、既に2章3節で、「知恵と知識との宝は、すべて、キリストの内に隠れています」とありました。前の口語訳では、「キリストの内には、知恵と知識との宝が、一切隠されています」となっていました。

  キリストには、偽りの謙遜でなく、真の愛と謙遜また真実があります。テモテ後書に、「たとえ私たちは不真実であっても、キリストは常に真実であられる。彼は自分を偽ることができないのである」とありますが、キリストが、「十字架の死に至るまで、神に従順であられた」のは、真実でご自分を決して偽られないからです。この真実が私たちを真実に創り変えるのです。

  私たちにとってアメリカのカリブ海に浮かぶハイチは遠い異国の世界です。丁度丸1年前、去年1月12日、明々後日ですが、死者20万人を越える近年空前の大地震が起こりました。その後コレラが流行して、今もコレラの流行や略奪が起こっています。

  ハイチは人口700万人ですが、150万人がまだテント生活です。長崎県の人口に匹敵する人たちです。首都に入ると、地平線彼方まで延々とテントが続いていて、そういう中で略奪や暴力がはびこっているそうです。

  朝を迎えても子供たちに食べさせる物がない母親が沢山で、完璧とも言える極貧生活を強いられています。ところが、そうした中にも拘わらず多くの人は神への信頼を失っていないそうです。

  「主において常に喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。主は近い。」そういう神への全面的な信頼がハイチの人たちに根付いているということです。また多くの人は、この悲惨な環境の中で自分より苦労する人たちに希望を与えるパン種になろうとしているということです。

  12月にハイチを訪れたテゼのブラザー・アロイスさんは、世界の若者たちに次のように語りました。「ハイチの人たちが、どんな異常なことにも耐え抜く優れた力を、神への信仰から引き出していることを知りました。理解できないほどの困難に見舞われても、その不幸全体より、もっと深い所にキリストが存在されるのです。彼らの神への信頼が、私たちの中にも貫くように願いたいと思います。」        

  彼らはキリストから、その内に隠されている知恵と知識の宝を引き出し、困難に耐え、試練を越えて行っているのです。キリストの中には、偽りでなく、常に死に至るまでの真実がありますから、キリストの真実が、異常なほど困難な試練に遭遇している彼らを支えているのです。こういう姿は新聞やテレビからは見えてこないものです。

  やがて来るものの影でなく、実体であるキリストに出会って彼らは厳しい生活を乗り越えて行っている訳ですが、私たちもキリストに出会っていく時、キリストはハイチの人たちのような信仰、困難に遭遇しても進んでいける者に創り変えて下さる。コロサイ書はそういうことも言おうとしています。

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  最後に18節以下で、偽りの謙遜や天使礼拝にふける人たちは、頭であるキリストにしっかりと付いていないと諌めた後、キリストという「頭の働きにより、体全体は節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長していくのです」と語っています。

  「頭であるキリストにしっかり結び付く」こと、キリストとの交わりが強調されているわけです。

  リフォームされる教会の2階の畳部屋はちょっぴり広くなって6畳程になります。完成後この部屋を、イエス様が弟子たちと最後の晩餐をされた2階の部屋にちなんでアパルームと呼んではどうでしょうか。

  イエス様があの2階部屋アパルームで最後の晩餐をなさったその中心は、何でしょう。それは弟子たちとの交わりでした。「これは私の体」「これは私の血」と語って弟子たちにパンとブドウ酒を差し出し、それを弟子たちが頂くことによって、キリストとの霊的な現実的交わり、キリストが心の中にも、体の中にも入って来て交わって下さることを、確かさをもって、象徴的に味わったのです。

  若い時の私は、イエス預言者的な姿を強調して、厳しく人間批判、社会批判をしました。だが今は、キリストが来られたのは、別にユダヤ教を排斥したり、他宗教をやっつけるためではなく、全ての人が神との交わりを回復するためであったと考えています。ですから、私たちのアパルーム2階部屋でも、キリストとの交わり、神との交わりが回復される部屋、祈りの部屋にしてはと思います。

  むろん、キリストとの交わりを中心とした、人との交わりの部屋でもありますし、そこで教会学校がなされていいし、礼拝中の託児がなされてもいいでしょうが、本来的な目的はイエス様たちの最後の晩餐の2階部屋、キリストとの交わりの部屋、祈りの部屋。そういう大切な部屋にしてはどうかと思っています。無論特別な時はそこで泊る方があっていいでしょう。広くなるので2人が泊まれます。

  部屋の使い方で長くなりましたが、お話したいのは、「頭(かしら)であるキリストにしっかり結び付く」ということです。そうでなければ肉の思いの方が優先され、キリストに根拠を持たないものがはびこるのが私たち人間です。

  しかし、キリストという頭(かしら)につながっていく時、「この頭(かしら)の働きにより、体全体は節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」

  キリストにしっかり結合することによって、大山教会全体がうまく組み合わされ、互いに支え合ったり、補い合ったり、助け合ったり、励まし合う者となり、神に育てられて成長していくということです。反対に、噛み合ったり、裁き合っていては神に育てられません。

  少し先の3章14節をご覧ください。「これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛はすべてを完成させる絆(きずな)です」とあります。愛によって生まれるのは、信頼関係です。赦しの関係です。和解の関係です。そういう麗しい絆が生まれます。

  聖フランシスの「平和の祈り」が語るように、愛は、「慰められるよりも慰める事を、理解されるよりも理解する事を、愛されるよりも愛することを」望みます。

  頭であるキリストに結び付いて、私が私の頭でなく、キリストに支配される時、何よりも聖フランシスが祈るような愛の関係が教会の中に、自分の中に、私たちの周辺に育てられて行くのです。

         (完)

                                           2011年1月9日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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