神さまの影?


                      厳寒の日には春の花を見るとホッと寛ぎます     
                               ・



                                              やがて来るものの影 (上)
                                              コロサイ2章16-19節


                              (序)
  クリスマス前は、上板橋の住宅街でもあちこちの玄関に美しいクリスマスのリースが飾られていました。その時は、キリスト教に親しみを抱く人が沢山あるのを思って嬉しくなりました。できれば、それらの家の前でクリスマス・キャロルを歌うことができたらどんなにいいかと思いました。

  新年が明け、その辺りを歩いて驚きました。いつの間にか、謹賀新年のしめ縄に代わっていました。今や至るところ日本古来の風習です。

  日本は、飾りの文化なんですね。思想はあまりない表面的な装いの文化です。街に出ると多くの女性が十字架のネックレスをしています。これも飾りです。それは軽さでもあるでしょう。今日本には軽い文化が流行っているようです。ライト・ノベルという軽い小説なども流行っているそうです。ライトバンの軽自動車は日本の得意分野です。私など、随分軽い牧師ですし…。建築も屋根の重いどっしりした建物が減って、軽量の住宅が増えています。この軽さは、さかのぼれば芭蕉俳諧の「軽るみ」に行くのだそうです。すると、軽さもまんざらでもないと思ったりしますが…。

  正月には神社参拝した人が何百万人、何千万人でしょうか。新年を迎えて、何か心改まるものを求めて初詣に行ったのでしょうか、それとも皆が行くので行ったのでしょうか。

  昨日、朝祷会が誠志会病院であって、説教のために自転車で朝早く出かけました。帰りに石田屋の前を通ったら20人程が並んでいたので、私も初めて並びました。一人のおばさんがドラ焼きを毎日のように買いに来ているというので、「本当にここのドラ焼きはおいしいんですか」って、失礼ながら聞きましたら、「本当においしい」とは言わないで、「そうらしいですよ」って言うんです。ご自分はどうかは言わないんです。

  初詣も進んで行くのじゃなく他の人が行くので行くのかも知れません。大抵は信仰や思想からではない。皆がするから自分もする。一体これでいいのでしょうか。

                              (1)
  今日の個所に初詣について書いてあるわけではありませんが、「だから、あなた方は食べ物や飲み物のこと、また、祀りや新月安息日のことで誰にも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります」とありました。また、「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断をされてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです」とありました。

  ここにある色んな宗教的な風習や習慣、しきたり。それらは「来るものの影」だと言うのです。

  むろん影は本体と違います。影と実体では雲泥の差があります。「群盲、象をなぜる」と言いますが、影では実体とかけ離れたものになるでしょう。

  ただここには、肯定しているわけではありませんが、諸宗教や色んな慣習が持っている一面の真理を認めている節(ふし)も感じられます。「来るものの影にすぎない」けれども、人が希求し、願い、拝もうとする真理契機。人類が原初から持つ永遠なものへの欲求。それは本当のものを知らないと因習やタブーや戒律、また天使礼拝や星占い、背護霊というような得体の知れないものになったりしますが、影であっても、何かに頼りたいという願望は人間にあるということ自体は肯定されている気がします。

  だが影は影です。影はスコティアというギリシャ語ですが、スコティアとは、影でもありますが、暗がりや暗闇、暗黒や無知を指す言葉です。

  偶像礼拝的な諸宗教は神様の影に過ぎないのであって、今流にいえばバーチャル・リアリティです。幻想にすぎない。それだけでなく、恐ろしい暗闇の宗教になり、人をかえって苦しめる闇黒の姿に変じることさえあるものです。オーム真理教とか統一原理はまさにそうです。

  テレビなどが日本の土俗的宗教や色んな祭りを取り上げて、日本人の誇りや伝統文化を培おうと意図しているようです。確かに良い面もあるでしょう。しかし、優雅に見えるものや土俗的な長く続いて来たものを伝統文化として取り上げますが、表面的な取り上げ方が多いようです。一皮むけばそこに人身御供的な歴史があっも報じません。たとえ報じても、うまく美化したり、巧みに日本文化への畏敬を払うように誘導しているのを感じることがあります。

  青森にいたことがあります。ねぶた祭りは勇壮な光の祭りのように取り上げますが、あの祭りには凄惨な蝦夷(えぞ)征伐(せいばつ)、アイヌ征伐の、坂の上の田村麻呂以来の辺境の民への権力的な大和支配の歴史があることは取り上げません。

  東京の人は余りご存じでないでしょうが、あのねぷた絵には、おどろおどろしい武者絵や血に染まった生首をぶら下げた美人画などが描かれています。ハッと息を飲むほど美しい美人です。本当に美しい。が、その場面は血を血で洗う怨念が荒れ狂ったような世界です。そういうのがねぷた祭りの絵にあります。戦意を煽ったり、敵意を煽ったりする何かが隠されています。

  私の故郷のだんじり祭りも勇壮な勢いのある祭りとして有名ですが、村と村、町と町の若い衆の恐ろしい喧嘩の祭りにもなったりします。山車(だし)を神社に納めますから、きっかけは敬虔な宗教行事でしょうが、村同士の殺し合いに発展して闇黒の祭りに一変するわけです。

           (つづく)

                                           2011年1月9日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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