小さな小屋から光が漏れていました


                    知人のお宅にはもう春が来ていました。1月2日 
                               ・


                                              光あれ (下)
                                              創世記1章1-3節


                              (3)
  今日の個所が語るもう1つの事は、「闇が淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と書かれていることです。前の訳は、「神の霊が水の面を覆っていた」となっていました。

  闇や深淵、混沌やカオスがどんなに深刻であっても、それらは神の支配下にあると言うのです。地は形なく、ドロドロとして固まっておらず、どこにも確固たる足場がない。まさに無秩序の中で混沌とし、カオスの状態であり、メチャクチャな状態です。今の世にもそういうメチャクチャがあります。私たち自身が無秩序に、メチャクチャに巻き込まれたり、私たち自身が悲しいことにメチャクチャに近くなったりしています。だが、それを神の霊が覆って下さっている。神の霊は目に見えぬ神のご支配ですが、愛をもって覆って下さっている。悲しい姿を覆って下さっている。そして、神が「光あれ」という言葉を発すると「光があった」のです。

  以前にも申しましたが、3節の光は太陽とか月の光とは違います。太陽や月のことは別に14節以下で述べられますから、この個所の光は物理的な光ではありません。そうではなく地を覆う救いの光、愛の光です。救済の意志が地上に、原初の時代から私たち全被造物と人間のもとに届いているということです。

  イスラム寺院のモスクは日本では余りお目にかかれませんが、その寺院の傍にはミナレットという高い塔が聳えています。今、ニューヨークではその建設許可を巡ってもめています。9・11事件のグランド・ゼロの近くにイスラムの塔が聳え建つことへの嫌悪感からです。

  ニューヨークのことはさておき、その高い塔に半月の印が掲げられています。赤十字社は、イスラムでは新月社と呼んで十字でなく三日月のマークを使っているのは皆さんもご存知です。

  イスラムは、なぜ月を神の象徴のようにしているかと言うと、受け売りですが、月はいつも私たちと一緒に歩いてくれるように見えるからです。子ども時代を思い出すと、夜道を月に照らされて行きますと、私たちが進むと月も進みます。止まると月も止まる。走れば月も走って来る。だから、月はいつも共にいてくれる神の印になったのです。

  だが、聖書が冒頭で語るのは、月でも太陽でもなく、神が「光あれ」と言われ、その結果「光がある」ということ。神のみ言葉、その恵みの意志が地に光を与えるということです。

  ですから詩篇119篇は、「み言葉は、わが足の灯、わが道の光」と歌います。またミカ書は、「暗闇の中に座っていても、主こそわが光」と語るのです。神のみ言葉が光であり、神ご自身が光です。

  そしてやがて新約聖書では、「私は世の光、私に従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」とイエスが語られ、その光を与えられた者に、「光の中を、光の子らしく歩みなさい」と勧められるのです。

  こう見て来ますと、神が語られる「光あれ」の声が旧新約聖書全篇を貫いているのです。旧約聖書は世の光キリストを待望する書であり、新約聖書は世の光キリストが世に来たこと、世を照らしていることを告げています。言葉を換えて言えば旧約は「光あれ」と語り、新約は「こうして、光があった」と告げているのです。

  そしてこの光は、王様のいる宮殿から輝き出たのでなく、小さな馬小屋の飼い葉桶の中から世界に漏れ出たのです。貧しく低い場所から人類の救いの光が漏れたのです。私たちは、その方の誕生を先週クリスマスでお祝いしました。

                              (4)
  昨日まで、オランダのロッテルダムでテゼ共同体の大会があり、日本からも青年たちが参加しました。今年は、そこにドイツのヴァイツゼッカー元大統領も参加していました。人類が忘れてはならない世界的に有名になった言葉を語った人です。

  テゼが世界に発表した2011年の手紙を読んでいましたら、女性として非常に早く工学部に学んだ人ですが、やがてプロテスタント神学者になったスザンヌ・ディートリッヒの言葉が紹介されていました。彼女は20世紀最大の女性神学者と言われる人で、早くからテゼ共同体に共鳴して支えた人です。

  「キリスト者は赦しによって生きる者です。彼は、神の戒めを日々破ることを知る者であり…」これは、自分の心の闇を知る者だということでしょう。自分の中に闇や無秩序があることを告白せざるを得ない者だということです。

  「しかしまた、神のもとへ日々帰って来る者であり、また不屈の確かさをもって、神こそ人生における最後の言葉をお持ちになっているのを知る者です」と書いています。闇の中に、神が「光あれ」と語ると、「光があった」ということは、神は最後の言葉をお持ちであるという意味です。闇が最後でなく、光こそ最後の言葉であるということです。

  彼女は更に続けてこう書きます。「彼(信仰者)が戦うのは、一人ではありません。自分自身を与えたそのお方(キリスト)は、決して彼を捨てはしません。彼の確かさは自分を根拠にするのでなく、神を根拠とするのであり、イエス・キリストにおいて表わされた信仰と神の愛に根拠を置くのです。以上のことのゆえに、前進してもうぬぼれず、打ち負かされても落胆しないのです。彼は自分自身に所属しないので、常に繰り返して立ち上がるのです。彼は他の方に属する者だからです。」

  何と力強い言葉でしょう。なぜ、私たちは神を根拠とするのか。その主張ははっきりしています。そして神に根拠をもつ時、自分からも自由にされ、繰り返しこの根拠に立ち戻ってそこから再出発できるのです。

  「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」この神に属し、この神を信じるとは何と幸なことでしょう。成長してもうぬぼれず、打ち負かされても落胆しない。うぬぼれからも、落胆からも自由にされている。キリストはこういう素晴らしい人生の道を敷いて下さったのです。

  神こそ、内面的な平和の源です。この平和は、徹底的に神に赦されることを知る時に生まれます。そして私たちの中に神の赦しが与えられ、魂に平和が授けられる時、世に平和を創り出す者、世に対して光を放つ者とされて行くのです。

  「あなた方は世の光」とは、キリストによって命の光を授けられる時に世に漏れ出る光です。

         (完)

                                    2011年1月2日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


       ・ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/ 

       ・板橋大山教会への道順は、下のホームページをごらん下さい。
                   http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/