世界に光あれ


       大工さん達はお休み。リフォームの完成を待つ礼拝堂は静寂を保っていました。2011年1月2日 
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                                              光あれ (上)
                                              創世記1章1-3節


                              (序)
  教会から離れた場所で礼拝を守ることは時々ありますが、個人のお宅で、年初の主日礼拝を守るのは初めてです。大山教会の歴史の中で、今日は初めて体験する記念すべき日だと思います。

  先ず、お宅を開放して下さったAさんたちに心からお礼を申し上げたいと思います。平日礼拝をほぼ4年間毎月開かせて頂いていることも含め、心から感謝いたします。ご一家を、キリストが祝福下さるようにお祈り致します。

                              (1)
  さて、年の初めということで、今日は聖書の冒頭、創世記1章から、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の上を動いていた」という言葉を聞きました。

  過ぎた1年を振り返る時、世界も日本も「混沌」とし、「闇が深淵の面」を大きく覆っているのを痛感します。失業者が320万人に達し、この春卒業する大卒者の就職内定率が58%という低い率です。金の卵といわれる高卒予定者の内定率も非常に悪いです。経済的な困難と共に、尖閣列島や千島列島などの周辺国との関係悪化も闇を深くしています。それにじりじりと温暖化が地球規模で進みつつあり、私たちの生活に影響が出てきています。去年の異常な暑さも、異常な豪雨もそうでしたし、外国では異常乾燥や山火事、平原の火事も起こっています。これらは近い将来の深刻な食糧危機を心配させます。

  豊かさの限界。既に1970年に、ローマ会議は世界に先駆け、人類は今後豊かさを無制限に追求できないこと、してはならないことを警告しました。その暗い現実がいま私たちをじわじわと締め付けているのかも知れません。

  年末から新春に掛けて朝日新聞は、「孤族」という造語を作って、今の日本の世相を言い表そうとしています。家族でなく孤族です。社会から孤立し、孤立させられている孤立した種族たちが増えていると言います。孤族たちは、孤独の中で犯罪を犯したり、死を選んだり、餓死したりしていると報道しています。秋葉原の事件も取手の事件も、孤族たちの事件と見ているのでしょう。

  孤族の現象もまた、今日の混沌とした社会、闇の深さ、その深刻さを表わしているでしょう。

                              (2)
  聖書は開巻劈頭で「初めに、神は天地を創造された」と語り、地は混沌として闇が大地を覆っていると語りますが、直ちに、だがしかし、神が「光あれ」と言われると、「光があった」と語るのです。

  聖書はここで、科学的な事を言っているのではありません。この世界と神との関係を語っているのです。世界は神なき世界ではないことを、物語風に単純明快に語ります。

  神が世界をご支配しているのであって、何か正体不明の偶然や運命、不気味な恐ろしい宿命が世を支配しているのではない。また無機質の冷たい法則が、物質世界と宇宙を覆っているだけの唯物的な世界ではないということです。

  神の全能の明るい知恵と知識が、温かい愛が世界を支配し、神の意志が世界をはっきり覆っているということです。「初めに、神は天地を創造された」とは、神が愛をもって世界をお創りになったということです。

  短い正月休みですが、大自然に触れた方もおありでしょうか。私たちが自然の中に出ると誰しも伸び伸びし、癒されるのは、いわば神の懐に帰るからです。大自然は神ではありませんが、そこで神のみ手に抱かれるのを感じるからでしょう。自然が牙をむくと荒々しくなりますが、普段は、そよ風に心地よく揺れる木々の葉やキラキラ光る木漏れ陽、小川のせせらぎからも英気を養われるのです。神は被造物を美しく、魅力的に造られました。

  今日の混沌とした社会、闇の深さ、その深刻さのことに戻りますが、聖書は、確かに地を覆う混沌や闇を語りますが、それ以上に力強く、神は「光あれ」と語られる方であり、闇の中に光を創造される方であると語ります。

  新聞は不断にこれでもかこれでもかと心配事を訴えかけますが、聖書は、心配事を語るのを専門にしません。世界には問題はあるが、神はその中に希望を指し示す方、いや、希望を創り出す方です。言葉を換えて言えば、神の光は闇の力よりも遥かに強いことの告知です。それは闇を打ち破り、闇を切り拓きます。「『光あれ』すると光があった」と語るのは、そのことです。善の力とその浸透力は、悪の力とその浸透力を遥かに超えて大きく偉大なのです。最後は神が勝利し、闇は滅び、光が勝利するとの宣言です。

  「『光あれ。』こうして光があった。」これは人類へのマグナカルタ、聖書が語る大憲章と言っていいでしょう。長い歴史の中には人間の混乱や社会の混沌があるでしょう。だが神の摂理は必ずそれを越えて解決していくということです。

  ですから、「初めに、神は天地を創造された」と言うことは、神が創められた限りは、神が必ず世界を締めくくられる。恵みをもって始められた方は、責任をもって恵みで締めくくって下さるということを示唆しています。

  ですから、聖書の価値観は悲観主義ではありません。むしろ楽観主義に近い、神にあっての楽観主義です。

  新年を迎えるにあたって、神は恵みをもって私たちの人生と世界の歴史を締めくくって下さる方であることを思って、思い煩いや取り越し苦労は色々起こりますが、それを繰り返し背後にして、今の時を十分に生きていきたいと思います。

        (つづく)

                                    2011年1月2日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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