未完のまま世を去っても


                 育ちゆくスカイツリー(10年12月27日、本所吾妻橋から)
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                                              偉大な一言 (中)
                                              ルカ1章26-38節

                              (2)
  私たちはクリスマスの訪れを、まずこの小さな女性のもとで聞きます。これは偉大な一言です。これ程大きな神への信頼はありません。彼女には神の御子を生む価値も資格も、偉大な功績もありません。心貧しく、身分の低い、ただの娘です。ですから、彼女は自分に基づかず、神のみ言葉のみに基づいて決断したと考えるべきです。神のみ言葉に基づいて決断する事が大事です。常識で判断する。それもいいでしょう。だが、神の言葉を聞いているのに常識の方を優先する。そこに常識を超えられず、こじんまりまとまってしまう、小粒になったという日本人の姿がありはしないか。信仰は神の言葉に委ねる事です。

  A教会に少林寺拳法師範の人がいます。昨年受洗しました。少林寺は宗教法人です。それで彼は、洗礼に先立ち本部に行って免許皆伝の証書を返し、これ迄の事を感謝して、今後はキリストで行きますと言って帰って来たそうです。彼は神の言葉を聞いたから、み言葉を優先して常識を超える決断をしたのです。彼は今ある企業の課長さんですが、土曜日にその小さな教会に行って週報を印刷しています。週報というのは教会に欠かせないものです。彼は教会に不可欠なものをもって教会の一翼を担っているのです。進んでこの奉仕を申し出られた。

  今は自己実現が求められる時代です。自己実現には無論良い要素がありますし、キリスト教は個性を尊重して自己実現を奨める教育をして来たと思います。

  だが、余りにも自己実現が外面的なもの、見えるものに傾き過ぎています。有名になり、新聞やテレビで取り上げられ、お金が入り、スターになることが自己実現と思われている所があります。新聞やテレビがそれを何かと後押ししています。むろん全く駄目という事ではないですが…。

  だが有名になり、スターになり、偉大な事をするのが自己実現というのは底が浅い。大金を儲け、人に見られるようになる事が自己実現でしょうか。

  自己実現とはもっと深い魂の領域に届くものである時、真の自己実現になるのではないでしょうか。

  今週発表される2011年に向けた「テゼからの手紙」にこうありました。「人間の生命を自己実現させるものは、目を見張るような素晴らしい功績をなすことではありません。そうではなく、心の奥深くまで作用する穏やかな喜びです。どんな人も苦しみを負いながら生きており、未完のままであり、心をバラバラに砕かれているのがその特徴であって、この特徴は消えることはありません。しかし、このことが私たちの心の静けさを失わせるのでは断じてありません。」

  うまく訳せたかどうか分かりませんが、素晴らしい真実な言葉です。どんなに心砕けても、未完のまま世を去る事になっても、傷が治らぬまま生きても、それらの事が私たちの心の静けさをなくすことはできない。イエスは、「体は殺しても、魂を滅ぼす事の出来ぬ者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼす事の出来る方を恐れなさい」とおっしゃいました。終末において、最後に決着をつけて下さるのはキリストなのです。

  たとえ大きな仕事をし遂げても、その人生に喜びがなく、魂の安らぐ事がなく、明日の事を思い煩う日々であり、心休まる事がないなら自己実現とは言えないでしょう。業績は遺した、お金も残した、地位も得た、社会の勝者になった。だが人としての魂の自己実現はなかったという事なら、その人の表面上の自己実現と比べて甚だ意味は少ないでしょう。

  「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があるでしょう。何によってその命を買い戻せるでしょう」と、イエスが言われるのはその事です。

       (つづく)

                                     2010年12月26日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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