傷をもつ女性 マリア


           銀座3丁目で見た松の盆栽は外国人だけがシャッターを切っていました。(Mikimoto
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                                              偉大な一言 (下)
                                              ルカ1章26-38節

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  マリアは、やがて息子が十字架につけられ、目の前で殺されます。キリストの死体を膝に抱くマリア像、有名なピエタのマリアの悲痛な姿は、見る人の心を強く打ちます。

  だが、胸裂かれるほどの事もマリアの心の静けさをなくすことはできず、喜びを、平和を滅ぼすことはできなかったのです。却(かえ)って、「体は殺しても、魂を滅ぼす事の出来ぬ者を恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼす事の出来る方を恐れなさい」という言葉、更には「神の赦しがなければ、雀一羽も地に落ちる事なし」というイエスご自身の言葉の深い意味を悟る機会になったでしょう。

  ですから、「お言葉通り、この身になりますように」というマリアの偉大な一言は、イエスの誕生だけでなく、十字架の死も含むイエスの母になる事を受け入れる言葉であったのです。最初はそのことを知らなかったが、彼女は、イエスの死を目の前にしてそれを知って、「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」(47節)と、改めてマリアの賛歌を歌ったでしょう。

  マリアは最後に、いわば胸に大きな傷を持つ女性になりました。心に大きな穴が開いた女性にです。晩年に大きな傷を持つことは特につらいことです。だが、復活のキリストが、ユダヤ人を恐れて息をひそめて生きている弟子たちの所に入って来て、手と脇腹の傷跡をお見せになり、「平和があるように」と仰ったことが、彼女を力ずけ励ましたでしょう。復活のイエスは傷のない、無傷の体、まっさらな体でなく、傷を持つ体であったからです。

  聖書に、私たちが復活する時、キリストと同じ姿に変えられると書かれています。キリストと同じ姿です。傷を持ったキリストの姿です。彼女はそこから、心や体に傷のある事をよしとする信仰へと導かれたに違いありません。

  傷のある事は人として欠けのある事ではありません。世の嵐の中を生きてどうして傷つかない人があるでしょうか。傷がないとすれば、その人は少しも真剣に生きて来なかったからではないでしょうか。傷があってこそ、人である証拠ではないでしょうか。キリストの恵みに包まれる時、傷を隠す必要もないのです。

  キリストにある時、誰でもその傷は癒された傷とされ、罪人は救われた罪人にされ、贖われた罪人にされるのです。「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく創られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、全てが新しくなったのである」と言われる通りです。

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  偉大な一言。私は、イエスの生涯こそ世界に語られたア神の偉大な一言であったと思います。どんな人も苦しみを負って生きており、人生を未完のままで終わり、心がちじに乱れるのが特徴であり、この特徴は消えません。だが、誰でもキリストにあるならば、これらの特徴も私たちの心の静けさを、主にある平和を失わせるものには断じてなりません。30数年の生涯をもって、イエスはこの偉大な救いの一言を語られたからです。

  そのような偉大な言葉を語るために、御子キリストは馬小屋でお生まれ下さったのです。そこにクリスマスの本質、原点があります。

          (完)


                                     2010年12月26日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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