デューラーの十字架のイエス


                              初 冬
                               ・  

                                              凱旋のパレード (上)
                                              コロサイ2章11-15節

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  今日の箇所は、信仰の中心であるキリストとの出会い、キリストとの人格的な出会いが語られます。このところでは、割礼というユダヤ教の宗教儀式が隠喩的に語られますので、多少分かりづらい面があると思います。

  11節で、コロサイの信徒たちは既にキリストにおいて、「手によらない割礼」、つまり「肉の身体を脱ぎ捨てる、キリストの割礼を受けて、洗礼によって、キリストと共に葬られ…」た、と語られます。

  割礼というのはキリスト教にはありません。ユダヤ教で男性の性器の包皮を切除する儀式です。生後8日目にその儀式をします。

  だが洗礼は、割礼のような人の手による肉体に施す儀式ではありません。それは、キリストにおいてなされる霊的な、人格的な儀式です。

  洗礼というのは、あえて、あえてですが割礼と関係づければ、いわば肉的な自分、エゴイスティックな自己中心的な我(が)が、キリストにおいて、取り除かれ、切除され、脱ぎ捨てられる儀式だというのです。

  洗礼も目に見える式ですが、それよりも神による、内面的な、一人ひとりの魂の奥に迫って来る、霊的なものを指し示す儀式です。

  ヘブライ書9章に、「ご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」とあります。

  そのように、洗礼は私たちの良心を神の前に清め、清めることによって私たちを創り変え、人格を新しくして神の前に立たせます。「神の言葉は生きていて、精神と霊、関節と骨髄を切り離すほど刺し通して、隠された心の思いや考えを見分けることが出来る」ともあります。神の言葉は、そのように私たちを新しくするのです。

  洗礼は割礼と決定的な違いがあります。それは受ける者を、キリストが人格的に新しく創り変えてくださることです。その事実を、11節は、分かりにくい譬えですが隠喩的に述べるのです。

                              (2)
  そこで、その洗礼の本来の意味を、次の12節で述べて、あなたがたは「洗礼によって、キリストと共に葬られ、またキリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」と語ります。ロマ書6章でも同様のことが語られています。

  葬られること、そして復活させられること。この2面です。1面でなく2面です。日本の教会は葬られること、否定面が強く復活という肯定面が弱かったですが、この2つが同時に大事なのです。

  その上で申し上げるのですが、洗礼は人間の業ではありません。神の業です。それは頑固な罪の自己を、キリストと共に葬ってくださる神の業です。自分の手で自分を、その頑固な自我を葬ろうとしても葬れるものではありません。自己中心の自我は、まるで梅干の種のように硬く頑固です。噛み砕こうとすると歯が欠けます。ただ梅干の種は金鎚で叩き割れば割れるでしょうが、利己的な自我はもっと硬く、割ろうとしてもうまくスーッと逃げていきます。また柔らかくもあるのか、捕まえたと思ってもウナギのようにスルッと逃げて姿をくらまします。

  上野の美術館で新春にかけてデューラーの特別展をしています。デューラーは丁度5百年前の宗教改革時代のドイツの版画家です。イエスの受難に強く心惹かれて、その受難を描く繊細な銅版画によって人々に福音を告げました。銅版画による伝道者と言っても過言ではありません。

私は有名な十字架の場面の複製画を部屋に飾っていますが、今回その原画を見て来ました。

  十字架のイエスの周りを女たちや兵士達や群衆など色んな人が取り囲んで見上げていますが、不思議なのは、イエスの足元で、ただ一人髪の長い女性がうつむいて、何かを拾おうと手を伸ばしている姿です。指先に何かがあるようですが、絵ではよく見えません。

  一説では、イエスを突き刺した長い槍を持つ兵士たちの足元に転がった、ローマの貨幣を素早く見つけて拾おうとしている女性だと言われます。

  もしそうなら、この女性はイエスのすぐそばに来ているのに、イエスを見上げもせず、今もお金を探しているのです。キリストの側(そば)まで来ているのに今なお、お金です。

  磔になっているイエスの目はもう閉じる寸前ですが、憐れみ深くこの女性に注がれています。他の人でなくこの女性です。欲に引かれた人間を、裁きの目でなく、温かい憐れみの眼をもって見下ろしておられる。背後を振り向き、仰ぐのを、息を引き取る寸前まで待っておられるのです。

  デューラーは、女性を私たちの姿として描いているのでしょう。いずれにせよ、神は、洗礼の恵みによって、キリストと共に私たちの自己中心的な自我を葬って下さり、葬って下さるだけでなく、新しくキリストにある自我を復活させて下さるのです。12節はそのことを語っています。

  「自分をぬぐって、そこに光るような新しい人を立たせたい」と歌ったのは、八木重吉です。私たちはキリストに与る洗礼によって、神は、私を拭い去りそこに光る新しい人を立たせて下さるのです。

         (つづく)

                                          2010年12月19日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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