凱旋パレード


                           雑司が谷旧宣教師館
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                                              凱旋のパレード (下)
                                              コロサイ2章11-15節

                              (3)
  13節は、「肉に割礼を受けず、罪の中に死んでいたあなた方を、神はキリストと共に生かして下さったのです」とあります。「肉に割礼を受けず」とあるのは、特に割礼の習慣のないコロサイの人たち、彼ら異邦人の洗礼が語られているのでしょう。異邦人も、キリストにあって洗礼を受けて新しい生、キリストにあって新しく創造される。

  そして14節にかけて、「神は、私たちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて、不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いて下さいました」と語ります。

  イエスは十字架に釘付けされました。ユダヤ教の規則である律法によって裁かれました。「十字架につけられた者は、神に呪われた者」とあります。

  だが、イエスはその不当な死を、不当に押し付けられた死を、私たちに命を与えるための死とされます。罪を訴えて不利に陥れる規則、その証書を破棄し、十字架に釘付けにして、私たちを神の裁きから救い出されるのです。

  磔(はりつけ)にされなければならないのは私たちであって、キリストではありません。だが、キリストは私たちに代わって十字架に付いて下さったのです。呪われるべきは私たちなのに、キリストが代わりに呪われて下さった。そして、私にとって不利な証書を破棄し、取り除いて下さった。

  洗礼の意味、その奥義がこのように述べられます。洗礼において起るのは、神と私、キリストと私との人格的な出会いです。

  マルチン・ブーバーという、ナチスによって追放された世界的に有名な思想家がいました。青年時代、「我と汝」という名著を読みました。ユダヤ教の思想家です。不十分な訳で申し訳ございません。少し難しいですが、こう述べています。

  「汝(なんじ、神)は、恵みによって我(われ)と出会って下さる。この出会いは、捜し求めても見つかるものではない。(この点は、キリストの教えと異なります。)」 続いて、「だが、出会いに対する私たちの最初の言葉は、汝(あなた)という言葉です。この私の言葉は、私の存在の一つの行為であり、事実、私の存在が行なう行為です。」 こう述べた後、「私は、汝(神)に対する我(われ)の関係によって、私自身になります。私が、私になる時、私は『汝』に語ります。全ての真実な生は、出会いです」と書いています。

  「汝」とは神のことです。私はブーバーの言葉に、深く内面を揺すぶられます。

  洗礼において起るのは、汝との、神との、キリストとの人格的な出会いです。私と汝、神やキリストとの関係が生まれる時、私は神に対して汝、あなたと語りかける人格的関係に入っていくのです。真の祈りはここから出てきます。ここからしか出て来ません。この様に全ての真実な生、本当の生は、神との出会いによって起るのです。

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  次に15節は、別の面から洗礼について語ります。これも一つの隠喩です。「そして、諸々の支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に加えて、公然とさらし者になさった。」

  勝利の列とありますが、これは凱旋パレードです。ハンカチ王子こと斉藤佑ちゃん率いる早稲田の野球部が、この秋、晴れの大学日本一に輝いてパレードを行いました。早稲田通りはファンが詰め掛け、恐らく凱旋パレードに大きく沸いたでしょう。

  コロサイ書が書かれたローマ時代の、ローマ軍の凱旋パレードなら、最後尾にロープを首に巻かれた敵の首謀者たちを引き連れています。彼らは武装解除され、憔悴した姿で公然とさらし者にされて大通りを引かれて行きました。さすがは早稲田大学野球部の最後尾には敗れた相手の野球部員たちを引き連れていなかった筈でしょう。

  それはともかく、15節は、キリストの復活という神による勝利によって、諸々の支配や権威が武装解除され、キリストの勝利の凱旋パレードの列に従わせられて、公然とさらし者にされたというのです。

  敗戦国の将兵たちは、民衆の前にさらされて引かれて行きます。その後起るのは厳しい、情け容赦ない裁きです。打ち首か、晒し首か、十字架か、火あぶりか、無残な死が待っているだけです。

  しかし、キリストの勝利の列に加えられる私たちは、いわばキリストに捕えられ、キリストを先頭に連れられていきますが、これはこの上ない喜ばしい捕虜たちのパレードです。

  これは、諸々の支配や権威、闇の支配からの解放であるからです。「洗礼によってキリストと共に葬られ、死者の中から復活されたキリストを信じて、私たちも復活させられた」とは、闇の支配からの喜ばしい解放。罪からの解放。キリストの僕とされ、キリストの平和の中に移されたことの喜ばしさ。新しい私たちの復活を指しています。

  私たちは、祈りの中でキリストとの人格的交わりを授けられ、汝である神、汝であるキリストとの関係において、私が本来の私にさせられて行くのです。本来の私自身になって行く。

  私が祈りを強調するのは、ここに理由があります。祈りは汝である神との出会いであり、交わりだからです。そして私が、神を、天の父よと呼び、「天にまします我等の父よ」と呼びかけることを許される。これが洗礼に与ることによって授けられる喜びです。

  勝利者キリストを首(かしら)と仰いで、この方との真実な交わりに生きるようにさせられる喜びです。

  キリスト者としての歩みは、キリストの凱旋パレードに従う誉れある歩みなのです。心に喜びを抱いて歩みたいと思います。

        (完)

                                          2010年12月19日


                                      板橋大山教会   上垣 勝


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