愛が人の心を捕え、美しいのは…


  不思議な絵です。日展に入選する彼の絵はいつも考えさせられます。長椅子と周辺にあるのは、ある時作者の心を捕えた何かでしょうか。ぶどうの蔓はもう手入れされず散漫に生え、一時心奪われたアンモン貝やフラスコやその他のものももう忘れられ、互いに関係なく雑に転がっています。懐かしい風景のような。人が去って訪れなくなった別荘のような静かな風景。
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                                              血肉を越えた愛 (下)
                                              Ⅰヨハネ3章11-18節


                              (4)
  ユダヤ教のある文書には、私たちはカインを憐れむべきであると書かれているそうです。何故かというと、兄弟殺しの心は私たちも持っているからだとあります。そういう意味では、私たちは自分はカインと無関係と考えてはならないのではないでしょうか。実際の殺人はしません。しかしさっき申しましたように、咄嗟(とっさ)に殺意を抱きさえするのが人の弱さであり、罪です。

  しかし、私たちはカインの道を選んではならないのです。劉暁波(リュ・シャオホー)さんがノーベル平和賞しましたが、中国は愚かにも世界の国々に参加を見送るようにプレッシャーをかけました。私たちを取り囲む世界は死の力で脅かす世界ですが、キリストによって開拓された命の道を、愛の道を選択しなければならない。できれば命の道を切り拓きたい。

  愛することは本当に生きること、を意味します。命を真に全うすることです。それは、唯一の本当の命を生きることです。まさに「死から命へと移」されるのです。私たちは、永遠の命を与えられるに価しない者ですが、繰り返してお与え下さるキリストからそれを受け取り、私たちと同様に弱く貧しい人に、言葉だけでなく、実際に愛することによってそれを伝えたいと思います。


  新聞は最近、半分近くが広告が占めて嫌になっちゃいます。広告だけをどこかのページに纏(まと)めてくれて、記事だけのページを作ってくれたら何と便利かと思います。電車に持って乗るのも便利だし、トイレに入って見るにも便利だと思うんですが。違います?

  冗談はそれまでにして、広告も馬鹿にせず読むものだと思いました。侮(あなど)っちゃいけません。大阪出身の歌手で綾戸智恵(あやど・ちえ)という人がおられます。クリスチャンだそうです。この人の文章がある新聞の広告欄に載っていました。

  お母さんが脳梗塞か何かで倒れ、コンサート活動を中止して何年間か介護しておられたことは知っていました。お母さんは単なる脳梗塞でなく、認知症だったらしく、普通の介護と違って認知症の人の介護の困難さはどんなに大変かを書いて、疲れ切ってある日の深夜、気づくと自分は母の枕元で濡れぶきんを持って立っていたというのです。このままふきんを顔にかければ一切が終る、そんな危ない瞬間があったと言います。大変な戦いだったようです。

  しかし、息子の顔が浮かんで、逃げちゃあいけないと思って、頑張って介護したというのです。

  5年介護したある日、母親が「あんたが世間で受け入れられる理由がよう分かったわ」と言ったそうです。「自分は株をやって数字しか見て来なかった。しかし自分が儲けても誰も喜ばない。だが、あんたは違う。ずーっと人の心を読みながら―仕えながらという意味でしょう―生きて来たんや。あんたが頑張るとみんなが喜ぶ。お金は後から付いて来る。あんたの方が偉かった」と言ってくれた、と書いていました。

  「介護があったから聞けた、人生で一番嬉しい言葉」という見出しでした。苦労したから与えられた、人生の一番うれしい言葉だったというのは本当でしょう

  今日の所に、「世の富を持ちながら、兄弟が必要なものに事欠くのを見て、同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内に留まるでしょう」とあります。

  富を持っているからでしょう。高慢に、高みから見ている。人の心を惹く生きた言葉を雄弁に語るが、指一本動かそうとしない。霊的な高みから人を見下ろしている。この手紙はそういう信仰者に反対するのです。

  綾戸さんを引き合いに出すまでもなく、愛はいつも下に向う働きです。愛は、言葉や考えや感情だけでは決して満足しません。目にした悲惨な情況によって心動かされます。心かき乱される。人生には、心かき乱されることが大切です。心乱されて、これはどうすればいいのかと、愛は方法を探すのです。

  「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」と18節が語るのは、そのことです。愛は絶えず自分を与え、つまらない骨折りにも手を差し伸べて奉仕するのです。受けるばかりでは意味がありません。

  「地に落ちて死ななければただ一粒のままである。しかし、死ねば多くの実を結ぶ」とイエス様がおっしゃった通りです。

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  この手紙は、愛とは何かを教えています。その中心は、16節の、「イエスは私たちのために命を捨てて下さいました。その事によって私たちは愛を知りました」とあること。イエスによって本当の愛を知ることが出来るということです。

  私たちは愛とは何かを語りますが、私たちが愛と呼んでいるものは、愛であるとは限りません。私たちは愛とは何かを本当は知らないのではないでしょうか。愛に似ていますが、自分の立場に立った脚色がいつも付いてまわっています。

  愛を知るためには、キリストの実例に注意深く目を留めなければなりません。イエスは躊躇せず命をお与えになりました。神と等しい者であることに固執せず、僕となって仕えられました。

  愛は自由な無償の行為です。自由な無償の行為に意味があります。イエスは愛されましたが、愛を強制されません。また義務で行なわれません。愛が何より人の心を捕え、美しいのは、愛が無償の行為だからです。義務になった愛はもはや美しさを失います。

  先程申しましたが、中国の劉暁波さんはノーベル平和賞を受賞しましたが、獄中の受賞で、家族も軟禁状態で空席の受賞だったということです。まことに残念です。

  ハンガリーのある若い女性が書いていました。潔白にも拘らず、有罪とされて長く獄中生活をしていた一人の反体制活動家が、ある時釈放されたそうです。自由になり、長い牢獄を出て喜びの中でどんな風に釈放を祝ったでしょう。

  彼は祝杯を上げるのでなく、神に感謝し、数日間断食をして、神に感謝を表わしたそうです。

  私たちは自由をどう使うのでしょうか。どう使ってもかまいません。だがこの人は、キリストを愛して、無償の愛を示したのです。

  「言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう」とあるのは、隣人への自発的な無償の愛への呼びかけです。それは血肉を越えた愛です。それは神様への出し惜しみのない応答。喜びです。

        (完)

                                        2010年12月12日

                                      板橋大山教会   上垣 勝


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