血肉を越えた愛


     板橋にある茂呂遺跡の一角はどこか懐かしさが漂います。縄文人が今でも出てきそうな気配です。 
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                                              血肉を越えた愛 (上)
                                              Ⅰヨハネ3章11-18節


                              (1)
  今日の箇所に兄弟という言葉が沢山出て来ました。ヨハネの手紙の中で、集中的にこれほど出てくる箇所はありません。創世記4章のカインとアベルの兄弟の事を引用して7回出ています。

  不思議ですが、創世記4章のそこの所でも、兄弟という言葉が7回出てきます。そこに深い意味があるのか。どうでしょう?意味深げですが単なる偶然ですね。意味はありません。

  さて、今日の所から直ちに考えさせられるのは、兄弟や姉妹が一緒にいるにしても、自動的に愛があるとは限らないということです。悲しいことです。むしろ兄弟であるために我がままが強く出て、互いに張り合い、対立し、争ったりします。口論や衝突、また論争や裁判さえ起ることがあります。そのため、お互いに相手の傷に触れないように、当たり障りなく年賀状ぐらいの距離を保つのが多いのではないでしょうか。

  親父(おやじ)がいた時は交流があった。お袋(ふくろ)がいた時も関係があった。だが二人とも亡くなったら疎遠になったというケースが多くあります。作家のAさんの娘さん達の争いはその後どうなんでしょう。有名人で他にもあります。

  そこに人間の罪の問題が顔を出しています。

                              (2)
  こういう中で、今日の聖書は、「互いに愛し合うこと、これがあなた方の初めから聞いている教えだからです」と語っています。むろんこれは肉親の兄弟でなく、信仰の兄弟姉妹のことですが、信仰の兄弟であればあるほど「互いに愛し合うこと」が信仰生活の第1歩だと語って、14節は、「愛することのない者は、死に留まったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです」とさえ語ります。そこまで言うのかと、これはチョッとぎょっとさせられる言葉です。

  それから、「世があなた方を憎んでも、驚くことはありません。私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです」と述べて、16節で、「イエスは、私たちのために、命を捨てて下さいました。その事によって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」と語ります。イエスによって結びつけられた血肉を越えた愛が説かれるのです。

  このようにこの手紙は、「カインのようになってはならない」と述べ、「イエスのようになりなさい」と勧めるのです。いわばこの信仰者は、左手の親指でカインを指し、右手の人差し指でイエスを指しているかのようです。「あれではなく、この人のように」というわけです。そこが印象的です。


  そのカインは、「自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」とあります。カインは弟アベルの正しさを恐れたというのです。他の箇所に、人を恐れると穴に陥るとありますが、弟は神にとって好ましい人物だと見えたので、出し抜かれたと思って脅威を感じたのでしょう。

  私にもそういう心の闇があります。嫉妬が起り、ライバルを作って競い合う。こうしてカインは目障りなアベルを除くため抹殺までしました。人間はそんな愚かさ、弱さを持っています。実際に手は下さなくても殺意が脳裏をかすめるって言うことがあるでしょう。目で刺すって言うこともあります。

  ところがイエスは、「人々の侮辱に耐え、その命を捨てることがお出来になった」と語るのです。


  12月は日本ではメサイアの季節です。全国あちこちでヘンデルメサイアが演奏されますが、そこではイザヤが語るキリストの預言が沢山歌われます。

  イザヤはイエスを預言して、彼は人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。打とうとする者に背中を任せ、髭を抜く者に頬を任せ、顔を隠さず、嘲りと唾を受けられた。

  彼が担ったのは私たちの病であり、私たちの悲しみであり、彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり、砕かれたのは私たちの罪のためであったが、なすままに任せられたと語っています。

  更に、私たちは羊の群れのように道を誤り、それぞれの方向に向かって行った。その罪をすべて、神はキリストに負わせられた。

  彼を見る者は皆、あざ笑い、唇を突き出し、頭を振って、「彼は神に依り頼んでいるのだから、神に救ってもらうがいい」と言って、峻烈に激しく囃し立て、裁きました。

  彼は嘲られ、打ち砕かれ、無力になり、同情は得られず、慰める者も見当たらない。

  これほどの悲しみがあっただろうか。これほどの孤独があるだろうか。彼は民の背きによって、神の手にかかり、命ある地から断たれてしまったのである。

  イザヤは、イエスの姿をリアルに預言しています。イエスアベルにダブりますが、それは単に殺されるアベルでなく、私たちは都合が悪いと責任転嫁しますが、その全責任をご自分に負って十字架についてくださった愛の姿です。ここまで苦しみ、痛みを恐れず、私たちのために命を捨ててくださったお姿です。

  16節の「イエスは、私たちのために命を捨てて下さった」とは、以上の意味で言われています。

  ヨハネの手紙は、あのカインのようにではなく、このイエスのようになりなさいと言って指差すのです。

                              (3)
  カインはアベルを殺し、アベルは殺されます。しかし、明らかにカインの方が死の世界に住んでいるし、彼は死の恐怖に晒されている人間です。

  だがイエスは反対です。イエスは死を恐れず、十字架につけられたが、死んで甦り、命の世界に住んで私たちを死から命に移し、永遠の命を授けて下さる方です。

  「世があなた方を憎んでも、驚くことはありません。私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです」とあるのは、血肉を越えるイエスの愛に触れて、血肉を越える愛へと促されたことを示しています。血肉を越える兄弟愛に、死から命へ移される大事なポイントがあると述べるのです。

  マルコ1章にハンセン病、らい病の人が出てきます。彼はイエスの前に跪いて、「御心ならば、私を清くすることができます」と乞います。するとイエスは手を差し伸べて、「よろしい、清くなれ」といって癒されたとあります。

  この「御心ならば」という言葉を、ある英訳聖書は「あなたが選択して下さるなら」と訳しています。また、イエスの「よろしい、清くなれ」の「よろしい」という言葉も、「私はそれを選択する」と訳しています。

  イエスは愛を、それも十字架の愛を選択されたのです。自分が損になっても愛する道です。愛の方を選択する。これはイエスが私たちに示された最も大事な選択と言っていいでしょう。

            (つづく)

                                        2010年12月12日

                                      板橋大山教会   上垣 勝


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